今年の節分は2月4日です。節分の2月4日は製鉄所で大規模のストライキで工場を停めた記念すべき日です。1920/2/4のカレンダーは今年2016年2月の曜日と同じで閏年で、4日は水曜日で朝から小雨が降っていたとの記録があります。
  いまから96年前の1920年大正9年2月4日立春、官営八幡製鉄所で大ストライキが起こります。1次ストライキでは労友会指導者は逮捕され、成果はなかった。続いて2月24日第2次ストライキをする。これには、「労愛会」も参加する。製鉄所は、ストが起こるとすぐに穏健なストをしない労使協調の「同志会」を結成させ、また職制の「組伍長会」をつくる。この組伍長会の加入している田中熊吉は、スト後に宿老の任命されるのです。
 ストは多くの解雇者を出すが、製鉄所は12時間二交替から8時間三交代に変わる。闘いにより、労働時間の短縮が実現したのは画期的な成果です。
 ストライキの主導者は、労友会の西田健太郎、浅原健三、鳥居重樹、吉村真澄、広安栄一 福澄芳一らです。
 このストライキの2年前1918年8月には富山から始まった米騒動が全国に波及する。全国で労働争議が起こる、八幡ではストライキの2日前には、労友会の吉村真澄らにより普通選挙要求の街頭デモ300人が八幡中央区購買会前に集合して市内2時間デモをおこなっています。
 米騒動、普通選挙、労働争議の日本の民主主義運動の高揚期の大正デモクラシーは、関東大震災、世界恐慌により戦争に突入して民主主義はなくなっていきます。
 
  浅原健三は、スト後、第1回普通選挙で国会議員に当選します。日本が軍国主義に向かうなか、石原莞爾のプレートとして満州に行き暗躍するのです。一方、西田健太郎は、無産者運動のリーダーとして活躍し、1933年10月16日肺結核により40歳で死亡します。八幡製鉄所のストライキは、西田健太郎の発起により組織されたのです。

 西田健太郎の葬儀は、八幡製鐵所の労働者は当局の目を恐れて参加できませんでしたが、失業者同盟、全農代表、コップ、朝鮮人ら130名が参集します。日本共産党から50銭の香典が届けられます。棺の上には箸に小さな赤旗が捧げられ、憲兵と警察の監視のなか、多数の労働者に担がれ八幡川頭町の火葬場に運ばれていきます。八幡製鉄所の各門と八幡中央区では「西田死す」のビラが1万枚配布されます。(出典 『米騒動と八幡製鉄争議』久田照和 近藤伸久著1970)


過去ブログ

イメージ 1
西田健太郎さんの肖像画