朝花巻に寄りました。

花巻は宮澤賢治と高村光太郎と新渡戸稲造さんの故郷。

ちょうど朝は雪からみぞれに変わり、宮澤賢治の永訣の朝が浮かんできました。


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みぞれ交じりの空                     雪の花巻

永訣の朝   宮沢賢治 
 
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

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 「地人館」                     宮澤賢治の銅像


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 賢治の家 ここで勉強を教えたそうです。 「下の畑にいます 賢治」 畑に訪ねて行ってしまいそう 

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イギリス海岸 宮澤賢治さんが「イギリスのドーバー海峡に似ている」と云ったことからついたそうです。
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賢治資料館

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい

もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい

われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった

近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する

この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか

新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある

正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である。


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入口にある「夜だかの星」


「雨ニモマケズ」「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「グスコーブドリの伝記」「ざしき童子のはなし」「注文の多い料理店」「やまなし」「雪渡り」「よだかの星」

グスコーブドリの伝記には涙の出る思いをしたのを思い出しました。


アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ    「雨ニモマケズ」より

ずっと前に読んだ宮澤賢治の童話他の物語が頭に浮かび、すっかり賢治ワールドに浸りました。

気仙沼の海から2キロ内陸に乗り上げた3000トンの漁船。
岩手被災地訪問して来ました。
昨日は1日寝ました。

被災地では、ガレキをこっちからあっちへ動かしただけ。
「なぁんにも進んでいないんだよ…」と 被災者さんもおっしゃっていました。
「家も家族も仕事も無くなってどう生きたら良いのか…」苦しんでおられるかたも。
「被災地の経済活性化のためにも、ガレキの処理は被災地でするべきだ」ともおっしゃっていました。
「どうして分散しなければならないのか? 運ぶコストもかかるのに…」とも。

あまりにも甚大な被害に心が押しつぶされそうになります…
東日本大震災で亡くなられた方々、被災後に苦しみの中で命を亡くされたすべての方々に安らぎがありますように。
悲しみのうちにいる家族や関わりある人々に慰めや励ましが与えられますように。
今まだ行方不明となっている方々が、探し続けているご家族のもとに1日も早く戻ることができますように

福島県をはじめと...するこの「みちのくの地」が原発事故による放射能によって、汚染されてしまいました。
政や専門家をはじめ多くの人々の協力によって、1日も早く美しい自然を取り戻し、汚染された地域の人々が以前の生活に戻ることができますように。
支援が十分に行きわたっていない地域に暮らす人々、今なお不安と困難のうちに避難生活を送る人々がいることを心にとめ、惜しみない協力を通して、共に生きる絆と一致を深めることができますように。
復興のためにすべてを尽くして働く人々、苦しむ人々のために働く人々に、必要な力が与えられますように。

日本大震災から1年。
死者行方不明者約2万人。
避難された方約40万人。
なかなか進まない復興。岩手、宮城、福島→東日本のことは日本のこと。
みんな繋がって考えて行き(生き)ましょう。
忘れないでください。
復興にはまだまだまだまだ時間がかかります。
れからは東から西へ人が動くと思います。
そういう方たちを温かく受け入れてくれる社会でもあって欲しいです。
みんなが良いことになりますように。

被災地仮設サロンでのアロマオリーブオイルハン
ドマッサージは大好評でした。
ハンドマッサージをしながら傾聴ボランティア。
たくさん たくさんお話を聴きました。

お米券を届けた仮設の自治会長さんから昨日お礼の手紙が届きました。
こんなことが嬉しくて次の活動につながるんですよね。
『被災地の経済活性化の為にも仮設へお米券を届けようプロジェクト』は、第2弾、第3弾と続けて行きます。
仮設は何百何千とあり、ニーズは変わって行きます。
大阪でも動いています。


お店が再開されました。被災された方の間で金銭的な格差が見えて来ています。
私たちは被災者さんに必要な物を伺いながら活動をしています。
本当はお金を用意して差し上げるのが良いのですが…。
失業保険も切れて生活が苦しくなった方が多いです。

■当会の口座
→ゆうちょ銀行→記号:18330→番号:380461 名前:岩手沿岸の中高生女子に援助物資を届ける会(支援は中高生
女子に限っていません)私たちは、東日本大震災の3日目から、被
災地を応援して来ました。ブログ→:
http://ameblo.jp/stshena/

やっと2011.10の被災地訪問のDVDも作りました。
機会が
あったら観てくださいね。
アメリカの高校生が歌っている日本への
応援歌がBGMでステキな曲です。
2011.6に被災地訪問後作
成した被災地のスライドショーDVDはYouTube配信中《東
日本大震災に寄せて・あなたを忘れない》歌SATOHA・写真か
おりん(約5分)
http://www.youtube.com/
watch?v=FlsWqUowGjk&sns=em

長くてごめんなさい。

岩手沿岸の中高生女子に援助物資を届ける会
釜石観音さま

岩手沿岸の中高生女子に援助物資を届ける会
気仙沼のタンカー

大槌町の仮設住宅から、広島支部の所に礼状が届きました。



岩手沿岸の中高生女子に援助物資を届ける会

当会にもお願いしていたアンケートが届きました。

当会のお米プロジェクトに賛同していただいた方にメール等で、報告をさせていただきます。

広島支部はハンドマッサージを仮設でしてました!!

マッサージをしながらの会話はとってもいい感じだったとか・・・
カリタスジャパン釜石ベースキャンプ カリタスジャパン釜石ベースキャンプ

カリタスジャパン釜石ベースキャンプ カリタスジャパン釜石ベースキャンプ

カリタスジャパン釜石ベースキャンプ カリタスジャパン釜石ベースキャンプ

カリタスジャパン釜石ベースキャンプ カリタスジャパン釜石ベースキャンプ

カリタスジャパン釜石ベースキャンプ カリタスジャパン釜石ベースキャンプ

広島支部は今回の予定を終了して、広島に向けて帰ってます!





はるかさんの記事を転記しました。

前のいつかは仙人さんと同じような内容です。

被災地の方が安心して生活できる町作りは難しいのでしょうか?

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

昨夜の地震はちょっと長めの小さな揺れから始まりました。

いつものように震度1くらいかな?と思っていたら、次第に大きくなり…

夕食の支度でつけていたガスコンロを慌てて消し、玄関の窓を開けて…

非常袋を準備しました。

すぐにテレビの情報も入り、津波注意報が発令されたのもさほど時間がかからず…久しぶりにまたあの嫌なサイレンの音が鳴り響きました。

ちょうど娘たちは海岸線をバスで帰ってきている途中。

いつも迎えに行くバス停まではあと10分くらい。海岸線を走って帰ってきます。

普段は私が迎えに行くんですが、昨日は足の痛みもひどく何があるかわからないので旦那が迎えに。

その間に私がしたことは、とにかく避難袋の準備。
通常の食料品や救急セット、電池等が入っているリュックの他に、毛布類が入っている袋といつも飲む薬が入っている袋、計3袋を準備。息子二人にはジャンパーを着せ、いつでも逃げれる準備をしてました。

その間にも、隣近所の方々は続々車で高台に向けて避難を開始していました。

まずここで一つの問題

大槌町の中で2500戸ほどの仮設住宅が建っていますが…

津波注意報が出た際に避難が必要と思われる仮設は唯一この地域だけかな。

実は ここの仮設住宅は津波浸水区域に建てられています

他の仮設は全部高台や、かなり山の方なんですが…

ここだけ大きな津波が来たら危険と言われている。

そもそも仮設住宅をそういった場所に建てること自体問題じゃないのか?というのが一つ。

本来なら、津波注意報が出てもここなら大丈夫と言える場所であればよかったのですが、安全が確保できないのでみなさんそれぞれリュックを持って避難開始。

我が家は、旦那も娘たちも帰ってきていないし、何より車がない。

避難するにもできない状況だったので、そのまま仮設に残るしかなかったわけですが…

車もなく、高齢者だけだったり、たまたま私のように怪我をしていた場合の避難はどうすればいいのか?これが二つ目の問題。

皆が避難をしているのに、我が家は仮設に残った。結局、これが子供たちのトラウマを引き出し、大きなストレスを与えることになってしまいました。

特に、次男君。

津波注意報発令後、一時期酷かったけど最近は落ち着いていたチックの症状がひどくなり、ずっと激しく頭を振り続ける状態で、これは結局寝るまで治まることはありませんでした。

隣の人が次男だけでも連れて行こうか?と言ってくださいましたが、この状況で家族が離れるのも良くない気がしてとにかく旦那と娘が帰ってくるのを待つことに。。

その間に店長さんはお店を閉めて避難することを夜番の子に指示。

統括に「津波注意報が出たのでお店は閉めてみんな避難させます。」と電話したら…有り得ないことに

「なんでだよ。」と返事が返ってきたとかで。。

ここでも、結局今なお不安と恐怖を抱えながらも被災地で現実と向き合いながら生活している私たちと、内陸に住んでいる津波の不安を感じていない一部の人との間のギャップを感じさせられることになってしまいました。

私たちが津波に対してどれだけの恐怖心を持っているのか?あの一瞬で全てを失った私たちに残されたのは大きく揺れたら高台に逃げる。それしかないのです。

お店や、家も大事かもしれませんが、やっぱり命あってこそ。「なんでだよ。」のまるで他人事のような返事には「まぁ、ここに住んでいなければ他人事なんだよな~」…結局「絆」も、先日の特集も響かない人には何も感じさせることはできていないという事実を突き付けられただけでした。

娘たちが無事に帰ってきたときには、すでに津波到達予想時刻の数分前。

避難するには一度海に向かって下がっていかなければならない道路状況を考えると…

とりあえず仮設に残って様子を見た方が賢明だろうという私と旦那の判断で仮設に残りましたが…

子供たちは青ざめた顔のまま。

それでも津波の一報の10cmという値を見て少し安心したようなので、まずは食べれるときにと夕食を食べて後は解除になるまでずっとニュースを見ながら過ごしました。

その間にも、何回も鳴らされるサイレン。

そのたびに警報に変わったんじゃないか?大津波警報になった?不安は増すばかり。

サイレンは、海岸に近づかないようにという警告の為だったんだけど、あまりにも何回もなるのでそのたびにフラッシュバックのような症状を引き起こすことになった。

幸い昨夜は大きな被害に見舞われることもなく、注意報解除。

やっと少し落ち着いたところで、みんな遅めのお風呂に入り、早めに就寝しましたが…枕元には大きな袋が3つ。

結局、眠れなかった方も多数いたようです。

今朝は次男君。

浸水区域なのに通学路に指定されている海の見える道路を通っていくのが怖い。という事で車で学校まで送っていきました。

距離的に300M足りないからスクールバスは出せない。

全く持って、根拠もなければ意味も分かりません。人命よりも距離を取る教育委員会。

寄付されたバスがたくさんあるはずなのに、義援金もまだ1億円ほど残っているはずなのに費用がないとかいうんですよ。。

私たち被災者が今一番望むことは、防波堤の完備でも、道路の復旧でもなく、がれきの撤去や通学路の補修でもない。

もし、仮に昨日のように注意報が出ても避難しなくても大丈夫な街づくり。

これからここで生活していくうえでどこにいても安全だと思える街づくりがしてほしいんです。

その為に町を山沿いに移動するのも構わないと思います。

住宅は早く山を切り開いて全て高台移転にしてもらいたいんです。

学校に行く時も安心して歩いていけるような。

そんな街づくりを検討していってもらいたいのに、町では別な方向に進もうとしています。



いつかは仙人さんの記事を転記します。

昨日の地震で沿岸は再度パニックになりました。

本当に必要な事を書かれています。

巨額の費用がかかる防潮堤よりも、沿岸の方は枕を高くして寝れる場所作りが求められてます!

゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚

本日、夕方、三陸沖に起こった地震で、ひさしぶりに沿岸部に
「津波注意報」
が発令されました。
僕自身は、大槌町吉里吉里の仮設店舗「くつと雑貨のいかりがわ」にいました。
そのとき沿岸部は?

完全に固まりました。
地震が長かったという事もありましたが、みんなが、
「もう、止まって! あの日と同じになっちゃう!」
と声を出していました。
津波注意報が発令された瞬間に、これ以上の高台はないという場所や、高台で被災を免れた知人友人宅に流れ込みました。
釜石市の僕達の工房は、この間の津波の浸水域からは1kmほどの所にありますが、浸水域から逃げて来る車で大渋滞だったそうです。
湾口防波堤が壊れた現在、この工房のある場所は、前回と同じ津波が発生した場合、一階は完全に浸水してしまいます。

今現在、大槌町の中心部、釜石市鵜住居地区の復興計画の住民説明会では、

防潮堤14.5m
浸水域の土盛りが2m

で、元の場所に戻って構わないという方針です。
また、14.5mの防潮堤基礎工事ですが、津波で倒れない構造にするには、70m陸側に基礎を打つそうです。
仮に、元の土地に戻るとしても、大槌町の安堵地区/赤浜地区/須賀町等など、釜石市の鵜住居/片岸等など多くの地区で、70m陸側の土地が使用出来ないとなると戻れない方が多数出てしまいます。
決定した場合、この方々が、現在どこに移転するかもまったく決まっていません。
また、大槌町中心部市街地、釜石市箱崎/根浜/鵜住居/片岸/室浜は、大槌湾内に位置しています。
大槌湾において、東日本大震災の津波の最高位は25メートルを超え、湾内のすべての地区がほぼ壊滅し、10人に1人以上の割合で多くの方が津波の犠牲になってしまいました。

防潮堤14.5m/浸水域の土盛りが2mでは、
まったく安全は保証されないんです!


「和」RING-PROJECTプ参加者の多くがこの地域にお住まい方々です。
僕が知る限り、
「恐くて、あの場所になんて戻れない!」
と、みなさんがおっしゃっています。

本日、津波注意報が発令された時にいた、大槌町吉里吉里のみなさんも
「恐くて、もう戻れない!」
とおっしゃっています。

今日の津波注意報が発令された時の町の様子は、まさに、パニックでした。

防潮堤14.5mで街の安全が出来るから、元の場所に戻っても良い。
という復興計画の方針.....
この計画が、最短でみなさまが仮設住宅から出られるんです。
と......
$いつかは、仙人のブログ

今日、目の前の光景に確信しました!
もう、浸水域に人が住んではならない!
目の前のみんなが、震え固まった状態を見て.....
不安そうに警報が解除されるのを待っている姿....

お願いします!
まずは、防潮堤より、高台移転!
地震が起こる度、震えながらの生活をさせないでください!


沿岸部のみんなが声を上げても、とどきません.....

まずは、国は浸水域の土地を買い上げてください!
そして、今すぐ山を崩し住める場所を作ってください!
そこの場に仮住まいのマンションを建ててください!
それから、防潮堤工事をしてください!
その後、防潮堤の高さ関係なしに、土盛りして整地した元の土地に戻りたい方だけ戻るという形にしてください!
みんな、商業、工業の土地は、避難路を確保した上で浸水域に建設はやも得ないと思っています。
これは、土地の買い上げさえしてくれればすぐに出来るはずです!
これは、この沿岸部で共に過ごす、僕の周りの方からの声です!

絶対に、順番があるはずです!
土盛りより、高台を作る事業の方が絶対に早いし、事業費用もかからないんです!
なぜなら、土盛りした土地に建物を建設するには土地を寝かせなければならないんです!
当初、8mの土盛りと言われていた計画が、2mになった理由はこの土地を寝かせる時間です。
高台移転の方向に行かない理由は?
みなさん、よく考えてみてください。
絶対におかしいんです!

今、この復興計画に疑問を投げかけ声を出してくださる事が、被災地を応援する最大の支援です!
この沿岸部で、将来、これ以上悲しい犠牲を出さない為にも!


ブログを書くより、やらねば行けない事がたくさんあるのですが....

みんなの不安そうな顔を見て、書かずにいられませんでした。


岩手沿岸の中高生女子に援助物資を届ける会

視察に行きました→釜石→大船渡→陸前高田→気仙沼…気
仙沼の海から2キロ内陸に乗り上げた3000トンの漁船
を残すか解体するか…検討中だそうです…瀬戸内海でも青
と赤の船を観ると胸が痛くなります

18:10頃地震がありましたが大丈夫です

ローソンで帰りのバスのチケットを買っていました

窓ガラスがユラユラ揺れて…すごい風だね~と話していた
らサイレンが鳴り響いて「津波警報が発令…」その場に待
機でしたが 皆さん落ち着いていました。

3月10日は石巻のとある中学校の卒業式のお手伝い。

とっても感動的だったのは 式後の祝う会を周りのみんなで運営していること。

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またまた行く道は雪。                 がれきの山


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この川を津波は逆流してきて家・畑をめちゃめちゃにした。 校舎の上のバス。


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旧校舎に到着

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教室の中
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過疎化で廃校になるはずだった高校を中学として使う。そこで卒業式。

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いよいよみんなで祝う会の準備。
椅子を並べ ステージを作り、音響。     中学さんの旗も飾る

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会場手伝いの後、私は受付さんの所で「ありがとうの詩」の販売。

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他校さんからのお祝いメッセージ。ほんとはもっとたくさんあります。

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いよいよ卒業生20数人の入場。拍手 拍手です。


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太鼓も駆けつけてお祝いです。     これは生徒が練習した太鼓。今まで使っていた太鼓は流された。なので、タイヤを太鼓にして…。それを聞いたプロの太鼓さん達が毎週 指導に来てくれた。本物の太鼓とタイヤの太鼓の競演です。すごい すてき

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プロの津軽三味線日本1さんも演奏に見えました。心を込めたすごい演奏でした。みんなの思いがこもったすてきな卒業生を祝う会でした。つながりがこんな素敵になりました。


翌日の11日は午前中に大槌の仮設にお米券を配りました。ある団体の企画に参加させてもらいました。

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私達はちょっとしかお金を集められなかったのですが、この団体さんがたくさん集めて下さって、大槌の仮設1世帯ごとに5千円のお米券を用意してくださいました。仮設のみなさんはとても喜んでくださって、その日の夜にはお礼の電話がありました。津波の塩の害でお米や野采が取れないし、お米を作る土地・農具がないので。


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続いて釜石の仮設へ。お米券を渡してもらう。頼んであった雑巾ができていました。こんなにたくさん。

仮設に移った地元の小学校に持っていきます。


午後 釜石市主催の慰霊祭へ。

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私は今まで毎月行くたびにお亡くなりになった方のことを聞いてきました。

この道で逃げる車で渋滞して シートベルトをしたまま津波に飲まれた とか 一端逃げたのだけど何かを取りに戻って亡くなったとか、お母さんが 子供の幼稚園が海べりにあるから だめだというのを振り切って迎えに行って亡くなったとか おまごさんが「おばあちゃん 逃げよ」と手を引いていて亡くなったとか…たくさん

ご遺体がビニールシートに包まれて車に乗せられ、自衛隊員の方が黙とうされている場面も見ました。残された方の「何で 自分だけ先に行ったんだ」という悲痛な思いも知りました。だんなさんを亡くした方の生きる気力を亡くした思いなど たくさんの悲しみに接しました。

なので、1周忌の3月11日はご冥福をお祈りしたかったのです。私個人としては他には考えられませんでした。ボランテイアに誘って下さったりもしましたが、できませんでした。

「祈り」だけでした。それしかできないからかもしれません。


慰霊祭の会場は人でびっしり。立っている人もいっぱい。会場の外の通路まで人人。市は平服でいいとの連絡でしたが、みなさん黒の喪服。

私の隣に見えた女性は 式前のDVDの上映の折りから ずっと涙 涙。どんなことがあったのでしょう。どんな思いでいらっしゃるのでしょう。どんな1年をすごされたのでしょう。

黙とう の折りもしっかり手を合わせてみえました。


釜石駅前の復興の鐘です。夜にはろうそくに火がともります。


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どうか負けないで生きていってください。


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様々な思いがメッセージになっています。


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私も復興の鐘を鳴らし、お祈りをしてきました。


 釜石市東日本大震災犠牲者追悼式 
式  辞 
 本日ここに、釜石市東日本大震災犠牲者追悼式を挙行するにあたり、大震災犠牲者の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
 決して忘れることのできない平成二十三年三月十一日。あの日からちょうど一年を迎えることになりました。
 美しい緑に囲まれ青々とした海原に面した、ふるさとの景色が一変し、がれきの山と化した姿が、今でも鮮明に思い出されます。
 八百八十九人の尊い命が犠牲になりました。いまだ百五十八人の行方が分からない状況にあります。
 市民の命を助けようと殉難した警察官、津波の襲来の中、水門を閉めるために犠牲になられた消防団方々、避難誘導の最中に犠牲となった消防職員と市職員、悲劇に遭遇した多くの市民とともに、身を呈して犠牲になられた方々もおられます。
 ご遺族の皆様方のご心痛をお察し申し上げれば何も言葉になりません。
 愛する家族や親しい友人を失った深い悲しみ、一日も早く帰ってくる日を待っているご家族のご心中、そして何よりも志なかばで旅立たれた犠牲者の方々の無念さを思うとただただ涙するばかりであります。
 今から百年以上前の三陸大津波でも、多くの犠牲者を出しました。明治二十九年、昭和八年の大津波です。先人たちは、その惨劇を石碑に刻むとともに、後世のために、大海嘯記録として残しました。親が子を助けようとして津波にのみ込まれ、子が親を助けようとして津波にさらわれた惨劇が記録されております。
 私たちは、その教訓を生かすことができませんでした。同じ過ちを繰り返してしまいました。
毎年繰り返し行われた避難訓練は生かされたのでしょうか、痛恨の極みであります。
 想定外という言葉で、この悲劇を忘却してはなりません。私達は、それぞれの立場で、津波に対する自らの意識と行動について省みる必要があります。
 二度とこのような過ちを繰り返してはなりません。このような悲劇を繰り返さない安全・安心なまちづくりに取り組まなければなりません。
 昨年の十二月、釜石市復興まちづくり基本計画を作成いたしました。復興に向けた基本理念として、「人々の意識や行動のあり方への喚起」、「希望と可能性の追求」、「歴史に学び、さきがけとなるまちづくり」の三つを掲げ、「三陸の大地に光輝き希望と笑顔があふれるまち釜石」の実現を目指し、市民が心をひとつにして総参加で取り組むこととしております。
 突然の悲劇に遭遇し、殉難された御霊の無念さとその想いは、市民一人ひとりがこの教訓を忘れることなく継承し伝えるとともに、次世代に誇りえる『釜石』として再生されることによってのみ、慰められるものと思うからであります。
 これまでも当市は、過去の津波や戦災によって幾度となく荒廃の憂き目に遭遇しましたが、その都度不死鳥の如く復興を成し遂げてまいりました。この力は、未だ失われることなく、脈々と受け継がれております。
 残されたものの使命として、私たち釜石市民は、心に刻まれた傷痕がいかに深く辛いものであっても、決して撓むことなく屈することなくそれを乗り越え、ふるさとの復興に全力を傾けていくことをここにお誓い申し上げます。
 振り返ってみると、あの惨劇の中、身も凍るような寒さの中で、身を寄せ合いながら寒さをしのいだ避難所での生活、わずかな食料を分け合いながら、一日一日をしのいできた日々。
 被災された多くの市民が支え合い、ともに助け合いながら、やっと仮設住宅での生活にたどり着きました。街中の瓦礫の撤去もだいぶ進み、被災された事業者の皆様も少しずつですが事業を再開しつつあります。
 これは、災害救助及び復旧に当たりご支援を賜りました自衛隊の皆様、海上保安部、警察官、消防関係者の皆様のお陰によるものであります。
 そして多くの県、市町村の自治体関係者、支援団体、企業の皆様からも物心両面にわたりご支援をいただきました。
 あらためて、ご支援を賜りました多くの皆様に、釜石市民を代表し感謝と御礼を申し上げます。
 一年を経て、今やっと復旧、復興への道筋がかすかに見えてきたかに思います。しかしながらご遺族の皆様、被災された方々の心の傷が癒され、お一人お一人が前を向きながら歩み始めることができなければ真の復興にはなりえません。まだまだ課題が山積しております。まだまだ時間が必要かと思います。
 共に心に寄り添いながら、どうか今後とも変わらぬご指導とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
 本日は、ご遺族の皆様方、関係各位の皆様におかれましては、ご多用のところ、そして遠い所からも多くの方々のご参列を賜り追悼式を執り行うことができました。厚く感謝を申し上げます。ここに、震災で犠牲になられた方々の御霊が、とこしえに安らかならんことを皆様と共にお祈り申し上げ式辞といたします。
   平成二十四年三月十一日
        釜石市長 野 田 武 則

一年前の今日、当会のメンバーが動き出しました。

当時の盛岡白百合学園3年生有志達はワンセグやラジオで津波を知り、沿岸出身のクラスメートも消息不明でしたので、とっても心配していました。

何かしたいとの気持ちから、この活動が始まりました。


3年生ですので、進学で岩手を離れるメンバーもいました。

限られた時間の中で出来る活動を求めて市役所や県庁に行きましたが、全て未定との事!

周りからは「物資を集めても最悪ゴミになるかもしれないので、もう少し様子を見てから動いたら」と忠告をいただきました。

でも、被災地の方が寒くて震えて不便な日々を過ごしているかと思うと・・・

“ゴミになってもいいから集めて被災地に届けたい”との思いで、四ッ家教会を借りて活動を始めました。


私達が住んでいる盛岡も3月11日は長く!激しく揺れました。

凄く揺れて家が崩れるかと思い、怖かったです。

ライフラインが回復するまで3~4日かかりました。

たった数日ですが、電気が私達の生活を支えていると身に染みて感じました。

ファーンヒーターもお風呂もIHも・・・

真っ暗な中、ローソクでの生活。

余震が続き、家族が一つの部屋で寄り添って寝ました。


東北は深刻なガソリン不足になり被災地に向かいたくても、難しい状況になりメンバーの保護者の方やBS、カトリック教会の方の協力で、集めた物資を山田、遠野、大槌、釜石へと運んでもらいました。


当初は昨年の3月末でこの活動は終了の予定でした。

文明国:日本なので、救援隊や救援物資があらゆる方法で投入されるだろうと思っていました。

ですから、「岩手沿岸の中高生女子に援助物資を届ける会」と命名して、同年代の女の子に向けた物資を集めてました。

私達の物資が被災地に届く頃は緊急性も無くなっていて、『内陸の女の子』から『沿岸の女の子』へのプレゼントになると想定していましたが・・・

現実はとっても悲惨でした!!



私たちは一年間、中高生女子に限定せずに活動をしてきました。

4月からの活動計画はこれからです。

今後もご支援・ご協力をよろしくお願いします。m(_ _ )m