
バリバリの昭和世代の僕らの頃の「体育座り」は "微動だにしない" ことが絶対条件でしたし
ランドセルだってめちゃくちゃ重かったですよ
でも
だからといって
「考える力」がソレで阻まれていたかというと
そんなコトは ないように思うのです
今に比べるとめちゃくちゃ限られた情報量の中で
それでも自分たちなりにアレコレ考えて知恵をしぼって遊んでましたしね
考える力を阻む
「体育座り」や「ランドセル」に要因があるわけじゃなく、「時代」がそんな感じにさせちゃってるだけなんじゃないかと
考えなくても答が見つかるタブレットと
考える前に答を教える大人たちと
「体育座り」や「ランドセル」に責任を押し付けるのは ちょっと違うような気がするのです
「体育座り」も「ランドセル」も 今の時代には絶対に不要なモノだけど
ソレを無くしたからといって子供に「考える力」が付くとは・・・
どう考えたって思えないのです
そもそも学校って
「考える力がある子」を求めていますかね
実はその逆で
できるだけ「考える力の無い子」を量産してる方が学校全体がうまく回るから
教師たちは一生懸命 「余計な事を考えない子」を育てているような気がしてならないのです
教師自身も「考える力が無い」んだし
ということで
実際に考える力を阻んでいるのは「体育座り」でも「ランドセル」でもなく・・・
考えなくてもわかりますよね。