傘を閉じ、ゆっくりと足を踏み入れると、そこには膝を抱え込んで座り顔を俯かせているチェギョンの姿。
その姿を目にして、シンは安堵のため息を漏らし
小刻みに震える肩に、チェギョンの恐怖が見えた気がして。
握りしめた手が、自分を求めてくれているような気がして。
シンはゆっくりとチェギョンに近寄って膝を折った。
「…チェギョン?」
驚かせないようにそっと肩に手を置くと、弾かれたようにチェギョンが顔を上げた。
そして目の前にある自分を穏やかに見つめる瞳に安堵したのか、唇を真一文字に結んで震わせた。
「探した…、大丈夫か?」
「…うん…、大丈夫…。」
「ごめんな、遅くなって。」
「…シン君。」
「お前が怖がるもの全てから守るって言ったのに。遅くなってごめん。」
「…シン君。」
「怖かっただろ?ホントごめんな。」
「怖くなかった…。」
「…チェギョン。」
意地を張ろうとするのか、震える唇から零れるその言葉にシンはチェギョンの不安をあおる様に降りしきる雨に負けない強く穏やかな瞳でチェギョンを見つめた。
「ウソ…。本当は怖かった…すごく怖かったよ。」
濡れた頬にまた新たな涙が流れ落ちる。
もう大丈夫だ、そう言葉で告げる前にシンは膝をついてチェギョンを胸に抱きしめた。
冷え切っていた心と身体が、シンの温もりでゆっくりと解されていく。
「もう大丈夫だ、僕がいる。ちゃんとここにいるだろう?」
「うん。すごく怖かった…。雷が鳴るし、独りぼっちだし。怖かったよぉ。」
「もう大丈夫、大丈夫だ。」
シンの温もりに包まれてようやくチェギョンは安堵の息を漏らす。
「…どうして雨が降るまでここに?」
シンの質問に、シンの胸の中で目を閉じていたチェギョンがパチっと目を開き、おずおずとシンの胸から抜け出した。
そんなチェギョンの様子をどうした?という表情でシンは見つめる。
まるで様子を伺うように上目遣いでシンを見て、チェギョンはバツが悪そうにへへっと笑った。
「散歩…、曇り始めたから暑さもちょうどよくて…、ちょっと思い出に浸りながらちょっとだけ、ほんのちょっとだけ横になったの。ほんのちょっとだけよ。」
「………。」
ほんのちょっとだけをやたら連呼するチェギョンに、見守っていたシンの表情がだんだんと呆れたものになったのは言うまでもない。
「寝たのか?」
「…寝たっていうか…。」
「爆睡か?」
「…せめてウトウトって言って。」
「お前がウトウトぐらいで済むか。よくこの硬い木の椅子で寝られるもんだな、ホント感心する。」
盛大なため息がシンから漏れると、チェギョンはだってと唇を尖らせる。
「ホントに心地良かったんだもん。シン君と良く遊んだこの場所で、シン君との思い出に浸ってたら…。」
「で…この状態か。」
そう言ってシンは外に降りしきる雨に視線を向ける。
「うん…。」
「どうするつもりだったんだ?僕がいつまでも帰ってこなかったら。」
その問いかけにチェギョンは大きな瞳でシンを見つめた。
「どんなに遅くなっても絶対にシン君は来てくれるでしょう?必ず雷が鳴る前に。」
「………。」
「私がどこにいても、絶対見つけてくれるでしょう?」
自信を持ったような微笑みに、シンは驚いた表情から小さく息を吐きだして笑った。
「そうだな、必ずお前の元に行くだろうな。僕もその自信がある。」
でしょ?っと笑うチェギョンが愛しくて。
自分を信頼して待っててくれることが嬉しくて。
シンはもう一度チェギョンの背中に手をまわして抱きしめた。
お互いの手を握りしめ、シンとチェギョンはひとつの傘に収まって東宮殿までの道を急ぐ。
1人でもずぶぬれに近い状態だった雨、どんなに身体を寄せ合っても2人の服はすでに濡れ始めていた。
そんな中、
「きゃぁ!!」
「うわぁ!」
チェギョンが小石に躓き、手を繋いでいたシンも道連れになりその場に膝と手をつき、なんとか身体を支える。
傘はシンの手から放り出され、天を仰ぎ雨を受け止め始めた。
「………。」
すわりこんだチェギョンと、膝と両手をついた状態のシンは顔を見合わせてどちらともなく笑いだした。
「あーん、もう!濡れちゃった。お姉さんに怒られる~。」
「傘を差してても一緒だろう。今さらだ!」
強い雨が体中を打ち付ける、でもそれが昔子供のころに戻ったようでシンとチェギョンにとっては楽しかった。
幼い頃、同じような出来事があったことを瞬時に思い出す。
小さな傘を差して2人で東宮殿の中庭を走りまわった。
手を繋いで走りまわる2人の小さな手に、子供用の小さな傘はとても邪魔で。
「えいっ!」
始めに傘を投げたのはチェギョン、それに倣うようにシンも「えいっ!」と傘を放り投げた。
頬に身体に打ち付ける雨が気持ち良かった。
空を仰いで雨を受け止めるように両手を広げるチェギョンに、幼かったシンは何度となく見惚れた。
「シン君、雨がシャワーみたいだよ!」
そう笑うチェギョンにシンも笑みを返す。
「気持ちいいねぇー!」
雨に濡れた自分達の姿を見たコン内官たちが目を丸めることすら楽しかったあの頃。
日頃大人しかったシンも、チェギョンが宮に来てともに遊び始めると随分無茶をした。
「お風邪を召します!」
そう言われても、雨が降る中庭で走りまわり、コン内官を幾度となく困らせたあの頃。
もうあんな真似は出来ないと思っていた。
思い出の中だけだと思っていた。
こうしてまたずぶ濡れになり、子供のようにはしゃげるなど想像もしていなかった。
でも、どんなに成長しても自分達はこうして何かを楽しめる。
僕たちは、今を楽しめる。
「シン君、シャワーみたい!」
チェギョンがその頃を思い出したのか、悪戯っぽい笑みを浮かべてシンを見た。
あの頃の言葉そのままが嬉しくて、シンは笑みを浮かべてゆっくりと立ち上がる。
「気持ちいいね。」
自分もあの頃のままの言葉を告げると、チェギョンは満面の笑みを返してくれた。
やはり僕たちは考えることが一緒だ。
そのことが嬉しくて、傘をその場に放り出したままチェギョンの手を取り走り出した。
「シン君、速いよー!」
そう言いながらも繋いだ手を離す事はない。
久しぶりに声を出して笑いながらたどり着いた東宮殿。
自分達を待っていたのは、コン内官とチェ尚宮の肩を竦めるようなお小言と温かい飲み物だった。
稲妻が走り始めた宮の上空。
時に凄まじい音がここにも響き渡る。
シンは頭を拭いていたタオルをソファーに投げ、そっと部屋を出た。
「きゃぁ!!」
案の定、足を向けた皇太子妃の扉の向こうからチェギョンの悲鳴が聞こえる。
「入るぞ!」
そう一言告げて遠慮なく扉を開けると、自分と同じようにまだ僅かに湿った髪のままのチェギョンがいた。
「シンくーん…」
あの春雷以来素直に雷が怖いと告げてくれるようになったチェギョン。
その素直に寄り添ってくれる愛しい人に、いつまでも傍にいると手を差し出すと、ためらうことなくその手は握られる。
雷が鳴り、初めて怖いと泣きだしたチェギョンを、自分が強くなって守ると決めたあの日。
この先自分と同じ過酷な人生を、自分の我儘で歩ませてしまうチェギョンを守れる立場になりたいと強く願ったあの日。
チェギョン、僕はちゃんと君を守れているだろうか。
これから共に歩く過酷な路で、君が不安を感じないほど僕は強くなっているだろうか。
君を守ると決めた日からすでに10年の月日が経った。
あの日から、いや出会ったあの日から僕の君に対する想いは一度も変わることなく、想いは深まるばかり。
素直じゃなくて、意地っ張りで、呆れることはいまだによくあるけれど。
それがチェギョンだから。
周りの人のことを常に思う優しさを持ち、時に驚くほど素直で、僕のために過酷な人生を選択してくれる。
それが、僕のチェギョンだから。
そんな君に、僕は今までも、そしてこれからも全てを捧げる。
シンの自室の扉がガチャッと重厚な音を立てて閉まる。
それと同時に稲妻が走り、間髪いれず雷の轟音が響き渡った。
東宮殿内にチェギョンの悲鳴が絶対に響き渡ると思っていた内人達、それがなかったことに動かしていた手を休めて視線を合わせる。
「チェギョン様の声しなかったわね。」
「うん…どうなさったのかしら?」
扉一つ隔てたその場所で、好きだよと囁いたシンの唇がそっとチェギョンのそれに重なっていたことを誰も知らない。
ゆっくりと離れた温もりにチェギョンは瞳を開けると僅かな距離でシンと視線が絡む。
「…こういうこと?」
僅かに照れながら、少し首を傾げて上目遣いで見上げると、口元に満足そうな笑みを浮かべたシン。
「…こういうこと。」
その言葉にチェギョンは花のように笑った。
――雷の稲妻が怖いと言うなら、僕が視界を塞いでやる。
雷の轟音が怖いと言うなら、僕が耳元で囁いてやる。
だから、素直に寄り添って。
僕が傘になり、全てのものから遮断するから。――
~終わり~