国連総会が開催しました。
ノーベル平和賞を受賞したオバマはパレスチナ国家樹立には拒否の姿勢を明らかにしています。
ユダヤ人というか、狂いまくっているシオニストの厚い壁は人々が本気にならないと打ち破ることも乗り越えることも困難なんだろうと思います。
壁の向こうには、待ち望んでいた世界があるように思えます。
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みなさんが幸せな休日(イード・アル・フィトル:ラマダン明けを祝う3日間の休日)を過ごせますように。来年は私たちの団結した行動によって自由を取り戻せますように。
歴史は時として形を変えて繰り返される。
1923年から1928年、私たちには、弱くて、分裂して、言い争ってばかりで政治をおかしくさせるパレスチナの政治的リーダーや、攻撃的な植民地勢力、占領の為に下請けとしてパシっているパレスチナ警察や地方のリーダーがいました。
しかし、Al-Buraq(嘆きの壁)をめぐる反乱で物事は変わった。
(注:イスラエルという国家が出来るまでの1900年間、ユダヤ人は「嘆きの壁」に近づくことが許されていなかった。)
下記は、私の本 "Popular Resistance in Palestine: A history of Hope and Empowerment" の重要な抜粋です。(主要な書店で入手可能)
(注:アマゾンでも購入可能です。Yas)
*Mazin*
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1923年~28年の期間、重大な緊縮とパレスチナ国民運動の弱まりを見せた。アラブ・パレスチナ議会の執行委員は、英国に対する要求を縮小し、人々の期待を低下させた。彼らはパレスチナの独立ではなく、自分たちが代表になる事を求めた。
新たなヨーロッパからやってくるユダヤ人の移住を拒絶する代わりに、彼らは比例代表制を要求した。
パレスチナの状況がどん底なのは、1928年6月20~27日にエルサレムで開催されたパレスチナ・アラブ会議で明らかだった。
250人の代表は、家族と一族の利益-国家主義者と抵抗者を入植させ、土地を売っていた(敵への)協力者の双方の利益を代理していた。
執行委員は異なる地方、派閥、風潮を満足させようと48人(38人のイスラム教徒および12人のクリスチャン)まで拡大された。
指導力は粉々になり、無力化していった。もはや英国による占領の終りやバルフォア宣言の撤回を要求せず、パレスチナ人の雇用のために英国の法律を変える事や、シオニスト企業に特権を与えている英国への異議といった、より「節度ある」リクエストに集中した。
1923年エルサレムで行われた経済会議の参加者たちは、減税を要求し、農民を支援するつもりだった。
パレスチナの分割は、英国の政策のために英国によって利用されるとともに、脆弱さを自ら招き続けた。
自然すら敵意をもっているかのようでした:1927年272名の死者および833名の負傷者と何千もの家屋倒壊する大震災でパレスチナは揺さぶられた。
請願や不満、デモ、そして限られた(limited)ボイコットの期間は、もう限界(limit)になっていたように思う。1929年以前、これらの民衆戦術を用いた数少ない注目すべき成功といえば、唯一シオニスト計画の実行をやりにくく出来たことだ。
権力者の陰謀は、英国政府が抵抗運動をくじかせ、地元民の不和を拡大できるようなものだった。
ロンドンや右翼保守派出身の強力なシオニスト・ロビーは、まったく合理的に解決しようとしなかった。不満は膨大し、ほかの反乱への機会が熟していた。前にも後にも導火線はシオニスト自らによって点火された。
論争は、ユダヤ人にウエスタン・ウォール(嘆きの壁)と呼ばれ、イスラム教徒にアル・ブラークと呼ばれているハラム・アル・シャリーフ(神殿の丘)地区で発生しました。
古い寺院の一部だと信じているユダヤ人もいれば、預言者ムハンマドがエルサレムへの夜旅の時に彼の馬(ブラーク)をつないでいた場所だと信じているイスラム教徒もいる。
歴史家たちは、その壁が神殿の時代と関連がないことを証明した。
その壁とその隣接した小さなエリアはイスラム教のワクフ(イスラム聖地管理組織)に属しているが、イスラム教徒はユダヤ人たちが慣習でそこで祈ることを許した。
ユダヤ機関に扇動されて、一部のユダヤ人たちはそこで仕切りやテーブルを組み立てたり、シナゴーグの設立を始めることを示唆したりして、伝統と英国の政策の両方を冒涜した。
この挑発行為は1928年9月24日に起こりました。その日は多くのユダヤ人がエルサレムの神殿が破壊された日と記録されていると思っている日であり、神聖なイスラム教の地にユダヤ神殿を「再建」しようとしているという懸念を募らせた。
何日たっても、ユダヤ人たちは協定にも関わらず障害を外すことを拒んだので、イスラム教徒の怒りは1928年11月、書簡や抗議によってどんどん高まっていった。
英国は1929年8月15日、ユダヤ人は嘆きの壁においては、いかなる耐久物も取り除かなければならないと裁決するとともに、そこはイスラム教の「ワクフ」に属しているが、ユダヤ人は伝統によって祈る事が許されると繰り返し念押しした。
ユダヤ人シオニストの指導者たちはその判決を拒絶し、代わりに物騒な集会を開催した。彼らはムスリムの地区を通って、嘆きの壁まで(驚くほど邪魔されずに)行進し、シオニストの旗を掲げ、シオニストの讃美歌「ハティクバ」を歌った。
嘆きの壁の所有と支配を要求する別のシオニストのデモが、1929年8月14日、テルアビブで開催された。
ムスリムたちは、それに反応して1929年8月16日(預言者モハメッドが生まれた日と記録されている日)に、金曜礼拝に続いて、嘆きの壁への行進をした。
ムスリムたちは英国の裁決の履行と史実的な協定を重んじるよう要求し、シオニストの挑発行為を非難しました。
英国がその裁定を履行できなかった(しなかった)ので、デモと暴動が翌週の金曜礼拝(1929年8月23日)の後、エルサレムで起こった。
警官はデモ隊に発砲した。警官の中には棒や剣、銃さえ持っているものもいた。
激怒したパレスチナ人たちはユダヤ人が神聖な場所を乗っ取り、英国がパレスチナ人たちを殺害しているという情報や噂が広がっている他の都市からやってきた。
政治的な対立は宗教的な特徴を帯びていた。なぜなら、シオニストは宗教的であるほうが自分たちの目的のため、よりいっそうユダヤ人の支持を得る方法だと考えたからだ。
たしかに、その年チューリッヒで開催された世界シオニスト会議は嘆きの壁問題が全体を占めていた。
続く・・・