マイケルは世界を知っていたから、心を大切にしていたと思う。
そういえば、金や銀が暴落してました。もともと黄金の間などで相場を決めてた人たちのそんな商売道具よりも、食べるものに不自由さえしなければ、人間は何とかなるんじゃないですか?
私たち日本人は今、安全な食糧を確保できず、食糧危機の真っただ中にいるんですが、ボーっと突っ立ったまま、動かなくてもいいんでしょうか?
アッバス議長の国連での演説↓(ユーチューブなのに貼り付けられなかった・・・)
http://www.youtube.com/watch?v=ZUVds_k9d5A&feature=colike
CNNで演説を見てたんですが、ラマッラーのLive中継されていて、全世界にパレスティナの人たちの様子が流されていた。
一人でも多くの人が、パレスティナの人たちは礼儀正しい普通の人たちなんだな、と思ってくれたらと願います。
あまり見られないパレスティナ民族舞踊デプカをLiveで見ることが出来たのが嬉しかった。
彼らができる精一杯の感謝の気持ちや伝えたい事を世界の多くの人たちに見てもらいたいのが伝わってきた。
心から今、パレスティナで彼らと一緒に過ごしたかった。。。
facebookで、パレスティナの友人が今日はすごく嬉しかったし、良かったと言っていた。
世界中の人たちが、今日、自分たちの存在に気がついてくれていることが、ただ嬉しいよ、という感じ。
今は、イスラエルのネタニヤフの演説やってる最中ですが(というか、今さっき終わったw)、ほとんど聞かなかったけど、シラけてしまった。ネタニヤフの演説はアッバス議長の演説よりも共感した拍手も少なかった。よし!
イスラエルのネタニヤフは、自分たちは平和を望んでいるのに、パレスチナの人々が平和でなく、国家を欲しがっているんだとか、パレスチナが我々の交渉を拒否しているとか、危険な武装イスラム教徒をレバノンやガザから追っ払ったんだとか、イランは核開発やっていて脅威だの・・・・・なんか、そういう内容のことを相変わらず言っていた。
イスラエルよ、悪いけどアンタたちが脅威だっちゅーの。
誰が核を世界に拡散してんだよ。。。日本を見てみろよ~バカ~バカ~バカ~!
なんて、つい口走ってしまいそうなのを今日もグッと抑えてみます。^^;
UPが遅れてすみません。。。m(_ _)m
今週の台風もそうですし、ユーロやドルの暴落もすごいですね・・・
NYダウの昨日もそうだけど、今日も400ドル超の下落。
目まぐるしい情勢の中に私たちは置かされているのを感じます。
それはそうと、意識をパレスチナに戻すと、パレスチナが国連に加盟できるのか、出来ないのか・・・この日本のニュースでも今、注目されています。
もちろん何のリスクがないのであれば安心して聞けるニュース・・・
自分たちの国家を認めて欲しいという彼らパレスティナ人の思いや行動は、米国やイスラエルからお金が入ってこなくなること意味することを彼らは十分理解していると思う。
それに、ますますイスラエルがパレスティナ人に対して土地搾取や武力を振りかざしてくる公算は大きいと思う。
ただでさえ、彼らの生活はカツカツで、これ以上お金や物資が入ってこないとなると子供や家族が生活するのに大変だから、本当はこれ以上苦しい生活はやりたくないことだろう。
ガザの人たちだって、空爆とかイスラエルの仕返しがまた待っていると思うと生きている心地もしないだろう。
同時に、このままずっと米国やイスラエルのいいなりで生かさず殺さずの屈辱的な状態を継続させられるのも人間の尊厳として許せないと彼らは思っているに違いない。
彼らはただ、当然のように私たちが持っている人間としての尊厳を認めてもらい、ごく普通の人生を歩みたいだけだと思う。
それって、いけない事ですか?
実際、ハマスとファタハが和解した後、その和解を気に食わないイスラエルはファタハへの送金を止めた。
米国やイスラエルはパレスチナに国連加盟申請をしたら金をやらねえぞ!とか、拒否権を行使するぞ!という脅しのような交渉の中で、パレスティナの人たちはそれでも一歩前へ出ようとしているのだと思う。
彼らの行動は、見ていて痛々しく思う。
これから、彼らは更なる米国やイスラエルの嫌がらせの中で苦しい生活が待ち受けているだろう。
米国はパレスチナのおよそ10倍のイスラエルに資金援助を行い、対等な話し合い以前のイスラエル擁護を続けている。
だけど、それでもやっぱりパレスティナの彼らは、早く英米やイスラエルの支配から解放されて、自分たちの願うような本来あるべき自立した自分たちの国家を願っていると思うし、こんな私も微々たるながら応援し続けたい。
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憎悪をあおったり、シオニストの支持を得るための独自の挑発は、ユダヤ人の植民地を武装し、軍国主義化させるために行われていたようだった。
トラブルは、アラブ人が激しく反応するのを見たがっていたシオニスト主義の英国人職員によっても扇動させられた。
たとえば、ヘブロンでは2名の英国人職員がアラブ人の攻撃が終わり、こんどは他のアラブ人たちが近隣のユダヤ人を守っているぞと噂を広げて、アラブ人の憎悪の炎をかきたてていました。
Hibbet Al-Buraqの民衆蜂起は、シオニストの計画に肩を持つ英国の偏った行為が拡がっていることを、パレスチナ人に明らかにしていった。
あるユダヤ人警官はアラブ人の家族を殺害し、死刑を宣告されたが、7年の禁固刑に減刑された。
他方では、3人のパレスチナ人リーダーたちがユダヤ人を殺害したとして、1930年6月30日にそのパレスチナ人たちは公開絞首刑となった。
アラブ高等弁務官事務局は、1930年8月8日にユダヤ人テロリスト、ジョセフ・ミズラヒの減刑判決する一方で、不十分な証拠でパレスチナ人を絞首刑することに反対するための会合を開いた。
賑やかなトルカレムの市場は、商売が儲かる日を犠牲にして1930年8月26日の全国的なストに参加した。
Hibbet Al-Buraq の蜂起は、ストリートに人々を集め、草の根民衆抵抗運動を促し、変化が起こるに違いないことを悟っていた。
大規模なパレスチナの人々の闘いには、いつもあらゆる階層の人たちがいた。
伝統的な家父長社会において、女性たちが踏ん張って表現や影響力を要求したことは、注目すべき点です。
彼女たちの要求は、女性の権利や差別、強制結婚、家族計画に関するものだけでなく、植民地化や占領に関するものだった。
アラブ女性協会のような団体は、独立や民族自決を要求しました。
アラブ・パレスチナ女性連合は、1921年エルサレムに設立され、また他にもたくさんの組織が作られました。
最初のアラブ女性会議は、エルサレムで1929年10月26日に開催され、およそ200名の女性が出席した。パレスチナの人々はバルフォア宣言やユダヤ人の植民地に反対し、民族自決を要求しました。
彼女たちはMatiel E.T.Mogannam に率いられた14の執行委員会を選びました。Mogganam は、のちに「アラブ女性とパレスチナ問題」という本を執筆し、社会的なうねりや活動を詳しく書いた。
参加した女性は多様でした。完全にベールを被った女性もいれば、とても自由な格好の女性もおり、クリスチャンもいれば、ムスリムもいた。
高等弁務官は感銘を受けていたが、簡単に次のように述べた。
「自分の権限は限られている。それにある程度の物事は植民省で決めなければならない。・・・(しかしながら)彼女たちのパレスチナの女性運動の進展に満足している。・・・私はパレスチナの女性たちが社会で適切な地位につけるよう、彼女たちの教育の場について最善を尽くして援助しよう。」
この会合で活気づいた議会は、エルサレムの旧市街を120台の車を行進して終わりました。
電報をメアリー女王に送り、それは次のような言葉で始まっていた。
200名のパレスチナのイスラム教徒、キリスト教徒のアラブ女性たちが、エルサレムの議会で26回目の会合をしました。
彼女たちは満場一致で、バルフォア宣言の撤廃を達成すること、および人数に比例したすべてのパレスチナ自治体を代表する議会から成る国家民主政府を設立することを要求し、全力を尽くすことを決意しました。我々の正当な要求を援助してくれるよう求めます。
このグループは長年活発で、無言の抵抗など、これまでにないパレスチナの抵抗のやり方を発展させたり、海外の新聞で手紙を発表したり、占領に苦しむ人々やグループを支援する囚人たちを直に援助しました。
彼女たちは、英国政府や新聞社、ニュースメディア、アラブ人リーダー、他の女性組織などに何百もの手紙を送りました。
そのことは影響がなかったわけではない。
たとえば、英国の刑務所に政治犯として捕えられている囚人に関する彼女たちの粘り強い手紙は、3人の囚人の恩赦という結果を導きました。
一方で、1929年の秋、ガリラヤでAhmed Tafesh率いる「Al-Kaf Al-Akhdar(緑の椰子)」と呼ばれる新たなゲリラ運動が起きた。
英国の占領軍に対抗したその軍事行動は、ほんのわずかな期間だけ持ちこたえたが、すぐに粉砕され、参加者は殺されたり、逮捕された。
抵抗の中心的な姿は、やはりデモ、抗議、市民の不服従などだった。
そして、もちろん同じグループのエリートの中には英国やシオニストが喜んで与えてくれるものは「実用的なアプローチ」として何でも得られるように、システム内で働くほうが最善策だと考える者もいた。
Hibbet Al-Buraqでは、パレスチナの人々の流れの中にある意見の食い違いは大きくなった。
プレッシャーは増し、大きくなるアラブ人の怒りを鎮めるために、英国やシオニストは代替策を見つけるしかなかった。
例えば、ベン・グリオンはヘブライ大学の学長であるユダ・マグナスや両国家主義者に何かしら和解の余地があるのか調査する許可を与えた。
マグナスは多くのパレスチナ人のアラブリーダーに意見を求め、少数派を保護する代表者も政治参加できるようなアイデアを出してきました。
しかしベン・グリオンはそのアイデアを完全に拒絶し、目標はあくまでもユダヤ国家であると主張した。
しかしながら、批判する人たちをなだめるためにグリオンは9名の閣僚会議のうち、3名を英国人(司法、財政、輸送)、3名をユダヤ人(入植、労働、入出国)、3名をアラブ人(教育、医療、商業)で構成することを提案した。
これは偏った解決案だったが、それもシオニスト指導者たちによって拒絶された。
ウォルター・ショー卿の指揮の下、調査委員会がレポートを提出する2カ月前にパレスチナ人たちは英国へ別々に渡航した。
彼らは当局者にアラブ人の権利を認めるよう迫ったが、マンデート(英国支配によるパレスチナ委任統治)やバルフォア宣言の終結を要求するには至らなかった。
当局者の回答は否定的であり、もともとそこで暮らしているパレスチナ人の権利を配慮することなく、委任統治の下でのユダヤ人当局への「義務」を主張しました。
ウォルター・ショー委員会は、1929年の出来事について、パレスチナ人たちはAl-Buraq(嘆きの壁)で(自分たちのパレスチナが)変化することを拒絶する権利があったし、アル・フセイニは暴力を扇動しなかったが、それ以外の要因、特にユダヤ人がthe Western Wall(嘆きの壁)でデモをやったり、支配的な政治状況がパレスチナ人たちの抵抗行為を引き起こしたと結論づけた。
30k㎡の所有権を奪ったあと、ワディ・アル・ハワレス村から15,500人の村人の追い出すなどという出来事があったから「問題」が生じたと、その報告書はほのめかした。
ウォルター・ショー委員会の勧告のひとつは履行され、英国政府は専門家にパレスチナの土地所有権や土地収益権を調査するように命じた。
国際的に有名な専門家であるジョン・ホープ・シンプソン卿は、1930年7月および8月にパレスチナを視察して回り、耕作可能な土地6,544,000 dunums (6,544K㎡)のうち、シオニストはおよそ1,000,000 dunums (1,000K㎡)あるいは14%を自分たちのものにしており、残りの土地はかろうじて地元のパレスチナ人たちを支えるのに十分だったと結論づけた。
このように増加したユダヤ人の入国管理は意味をなさなかった。
英国の首相、ラムゼイ・マクドナルドは、バルフォア宣言を含む、マンデート(委任統治)の下において責任に何の変化もないだろうと述べるワイツマンの手紙を公開し、シオニスト運動時代への心配を静めました。
彼の手紙はブラック・レターとして知られるようになった。
ほんのわずかな希望だけがすぐに追い出されたパレスチナ人のあいだにあった。
当局は、行政にユダヤ人の経済大国と利権を「再建」するのを援助するよう指示しました。
ユダヤ人の民兵は武装し、植民地を「守る」許可が与えられた。
ハガナ(ユダヤ人の準軍事的組織)は認められ、受け入れられた。そして、より多くのユダヤ人が戦う技術を得るために英国警察に加入した。
それでも民衆抵抗は続いた。
アラブ人の村議会は1929年11月5、6日にヤッファで開催された。会議から送られた書簡は、「ushr」 や「wirco」のような税金を廃止し、それらをシンプルな関税に替えるよう求めていた。
その他の提案は、増加する農民たちの破たんを減らすことができる農業信用組合や対策の解放などが含まれていた。
学生会議が1930年と1931年初めにアッカで開催されました。
国家基金はほとんどパレスチナ国内外のパレスチナ人やその他のアラブ人の寄付によって設立されました。
基金の目的は、シオニストの計画によって自分たちの時を失ってしまう恐れのある農民たちを助けることでした。
英国当局は1920年3月、農民たちにお金を貸し付けている銀行を閉鎖させ、度重なる銀行の再開要請を拒否しました。
1931年9月18日、ナブルスで国際会議は基金プロジェクトを公式に是認しました。1932年6月16日は脅かされた国を守ることを目的とした募金活動のナショナルデーとすることで一致した。
しかしながら、とても限られた基金では、8年間の活動の中、ベイト・ハヌナンド・ジュールのわずかな土地を救っただけで、ほとんど影響がなかった。
この基金は農民の土地を奪う英国シオニストの陰謀の規模の大きさにまったく匹敵することはなかった。
だけど、リスクを背負いながらの彼らなりの苦渋の決断なんだろうなぁと思います。