昭和20年8月9日
その時―
前夜から連続する警報・・・・・・その中で、9日朝は、快晴無風であけた。
軍需工場の多い浦上に、戦闘帽、巻脚はん、防空ずきんを肩にした人たち、女子挺身隊、動員学徒の群れが汽車、電車に鈴なりとなって続々と終結し、刻一刻、緊迫感が渦巻いてゆく。
空襲警報発令!
多くの市民は、これを「定期便」と呼び、また「時報」とささやき合っていた。やがて、警報が解除となり、いったん付近の防空壕などに退避していた工場従業員が職場に戻り、家庭の主婦たちも昼食準備に取りかかっていたところー
突如、ラジオが、“B29,島原半島上空を北進中”を伝え、市民の中には、飛行機の爆音を耳にし、東方上空に「ギラギラ光るB29」、浮遊する落下傘を眺めているものもあった。
香焼島(爆心地から南約10キロ)に駐留する高射砲隊は、眼鏡の中にB29の機影を捉えて追跡し、金比羅山(爆心地から南東約1.7キロ)高射砲隊もまたいっせいに砲身を向けた。だが、90式測高機が測定した高度は、9500~10000メートル。射程圏外。やむなく「戦闘態勢乙」・・・・・・なかには、浮遊する落下傘を目標にして射撃訓練を行う分隊もあったという。兵員は、鉄帽をはずし、上着を脱ぎ、上半身裸の者も多かった。
午前11時2分!!
異様な閃光が走り、すさまじい爆風、爆風が大気を裂いて来襲。山野にどよめくごう音、地軸をゆるがす衝撃波、熱線が照射し、火事嵐が荒れ狂った。
あれから73年…この1年間で新たに3511人の原爆死没者の名簿が奉安され、長崎原爆の死没者は計17万9226人になった。
広島同様、多くの死者 原爆による原爆症で今も、お亡くなりになられる被爆者が居ます。被爆の後遺症、被爆者への差別偏見に長年、広島も長崎の被爆者の方々の体と共にこころにも大きな計り知れない傷を受けました。被爆者の方々の高齢化が進み、原爆を語る方が少なくなりました。
今も原爆症で闘ってる方々には、まだ戦争は終わってないのかもしれません。 原爆は投下から73年経っても後々、被爆者の方々、被爆者二世の方々にも様々な傷跡、悲しみを長年与え続けます。

二度と起きてはならない事と未来に世界中に発信していかなければいけないと思います。

広島と共に
長崎に哀悼 追悼の意を込めて
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