20:00に家の呼び鈴が鳴った。

 

地元を離れて1年になる。移住してきたこの土地に友達はおろか知り合いもいない。

片田舎の片隅のこの家にこんな時間に訪問してくる営業や勧誘も考えられない。

付近の店は19:00頃には閉まるような場所だ。

 

風呂上がりに小鍋を作って、晩酌をはじめていた彼は、パンツを履きながら玄関に向かって「はい」と言った。

返事は、なかった。

 

シャツを着ながら、彼はもう一度「はい」と言い玄関へ向かい、のぞき穴から外を見た。

50歳くらいの中肉の男が立っていて、彼が確認すると同時に「NHKの集金でまいりました」と言った。

 

彼が扉を開けると、集金の男はもう一度同じことを言って、遅くに来訪したことを愛想よく詫びた。

 

 

「テレビは、もう20年ほど買っていないのです。なのでありません。」

 

彼がそう白状すると、集金の男は複雑な表情になって

「そうですね、いろんな考えの方が、おられますからね。わかりました。」と言って、帰ろうとした。

怒り、あきらめ、蔑み、あわれみ、そういったものが混ぜこぜになった表情だった。

 

 

どうせ、受信料を払うのが嫌で、だだをこねているのだろう。

そういった人には嫌というほど出くわしてきたし、こちらがお願いするだけ無駄なのだ。

私が引き返した後、この男はまたテレビを観ながら、知り合いにNHKの集金を追いやったことを自慢げに話すのだ。

自分の嘘や小理屈によって、恩恵を無料で享受できることを誇りたいのか

または、特定の思想によって、価値観にによって、不利益を被っているとして憎悪しているのか

またほかの様々な理由はあろうが、私の仕事の妨げにしかならないことは確かだ。

 

 

そういった気持ちが、彼には透けて見えるようだった。

 

不快だった。

集金の男がそう思ったことではない。それは仕方のないことだ。

 

この集金の男にそう思わせるに至った、嘘を吐いて誤魔化し、騙し、得意げになっている何者かがいる。

そして、自分がそういう輩と同類だと思われている。

本当にテレビは無いし、買ってもいない。

なのに、小利の為に「テレビはない」などと子供だましな嘘をついていると思われているのだ。

 

このことがたまらなく不快だった。

 

 

「嘘じゃありませんよ?どうぞ上がって確かめてください。」

「いえ、わかりましたので。大丈夫です。おじゃましました。」

 

 

彼は、本当は、家に他者を、それも見知らぬ何者かわからない人を入れるのが心底嫌だったのだが、あえて提案した。

確認してもらいたかったのだ。

 

子供だましな駄々をこねる、うわべだけ立派な吝嗇家たちとは違うと。

言い逃れて得意気になるような、卑怯者とは違うと。

まして、特定の思想をもっているわけでも、NHKが嫌いなわけでもないと。

そのうえで必要ならば、払う意思があることを。

 

 

だが、集金の男は帰っていった。

 

小鍋は冷め、苦い酒だけが残っていた。