ブログ、ご無沙汰してしまった。仙台国際コンクールのことを書いて以来だ。書きたいことというのは山ほどあるのだが、どうも筆が乗らないというか、指が乗らなかった。今度、携帯サイトが復活するので、そちらでも編集長ブログを書くことになった。書く場が増えるのは嬉しいが、混乱しそうである。
以前の携帯サイトでは、ずいぶんいろいろなことを書いた。その文章も無事残っている。http://magme.jp/stringも是非ごらんいただきたい。
 母方の先祖が伊達藩士だったことが、この春判明したことによって、仙台に対する親しみは以前より増した。今日は、市内を一通り回ったが、大都市としては本当に綺麗な街である。6日は、「とっておきの音楽祭」という本当にお祭りのような音楽祭が市内で繰り広げられていた。ストリートで、いろいろな団体が演奏したり、踊ったりしていた。いろいろなジャンルがあったが、私はやはり津軽三味線の演奏に惹かれた。血が騒ぐ。やはり、日本人の血が騒ぐ。
 その後、晩翠草堂という、土井晩翠が晩年に住んでいた家を見学した。どい、だと思っていたら、高校の時だったか、つちい、が正しいとか言われて、混乱していたので、今日こそ、どちらがただしいのか突き詰めようと思って、案内係の人に聞いたところ、元々はつちいなのだが、長女の照さんの勧めで変えたらしいのだ。照さんは、晩翠からも晩翠夫人からも信頼されるほど、聡明な方だったらしい。晩翠夫人は、土佐の高知出身で、土佐は、最も日本語の発音の美しいところとされていたらしい。その土佐の血を引いた照さんは、つちい、とはっきり発音できなく、多少なまった感じの発音をする晩翠に、どい、の方が良いと言ったらしい。その照さんが結核で亡くなった後、晩翠は照さんの言うとおり、どい、にしたのだ。その後、頑なに、どい、で通したそうだ。早くに亡くなってしまった娘さんへの愛情の証の一つなのだろうか。

 仙台国際コンクールのことを書こうと思ったのだが、指が勝手に動く。仙台国際コンクールの会場は、地下鉄旭が丘下車すぐの仙台市青年文化センターである。この旭が丘の駅は変わった駅で、片側はオープンなのだ。つまり、外が見える。そこは、台原森林公園である。蛍やメダカの生息地でもあり、自然のゆたかな公園で、若者から老人までジョギングしたり、散歩したり、とても快適な公園である。

 まったく私の個人的な感想だが、私は長尾春花さんの演奏が一番好きだった。私は、先週からミロ・クァルテットの心を揺さぶるベートーヴェンを聴いていたこともあって、長尾さんからも同じような揺さぶられ方をしたので、おそらくアプローチが共通しているのだろうと思った。案の定、彼女は楽理の友人とバルトークの音楽を徹底的にアナリーゼしていたくらいであるから、ベートーヴェンもしっかり構築された事は想像に難くない。アナリーゼから導き出される音楽性というものを具現化していたと私は思う。彼女のインタヴューは近い号で掲載する。
 全体に、接戦だったが、その中で、優勝したクララ・ユミ・カンさんは、ベートーヴェンの音楽を身体で覚えたと言っていた。小さい頃から、毎日ベートーヴェンのコンチェルトを両親から聞かされて育ったそうだ。本選翌日のガラ・コンサートでは、大変にリラックスして思う存分ベートーヴェンを再度弾いて、本当に素晴らしい演奏だった。もちろん彼女のインタヴューも近い号で掲載する。
 審査委員長の宗倫匤先生は、みんなに一位を挙げたいと言われていたが、本当にそう思う。

 本選二日目の午前には、シュミュエル・アシュケナージさんから、いろいろなお話をうかがった。多少辛口のコメントもあったが、これはこのコンクールを大切に考えているからだろう。フェルメール・カルテット解散後の気持ちも語っていただいた。とても真摯な方だ。

 オレグ・クリサさんとも再会できたし、盛中国さん、瀨田裕子さんご夫妻ともゆっくりお話しすることができた。盛中国のロングインタヴューも近い号で。文化大革命時代、彼が舐めた辛酸は尋常なものではなかった。いったい何があったのか。克明に書きたい。

 
昨日、今日と、ミロ・クァルテットのコンサートを第一生命ホールで聴いた。
何から、書いたらいいのだろうか。
ミロ・クァルテットは、9.11を体験しており、その後、世界中で、バーバーの弦楽のためのアダージョを弾き続けてきた。初めて聴いたのは今から何年前だろう、9.11の直後から半年くらいの間に聴いたと思う。ミロ・クァルテットは、明らかに純正律ハーモニーを意図的に駆使している。彼らのノン・ヴィブラートでのトゥッティやハーモニーは完璧にハモり、倍音が増幅されるので、音量が倍増する。決して強く弾いているのではない。

今日聴いたドヴォルザークのアメリカ、これほど有名な曲でも、ああ、こんな風に弾くのか、この方がいいな、と思わされるところが随所にあった。そう書くと部分的なところに特徴があるのかと思われるかもしれないので、急いで付け加えると、全体に彼ら独自の演奏なのだと思う。決して奇を衒うようなことはなく、圧倒的に正統的な演奏だと思うのだが、でも、彼らならではの演奏だと思う。

昨日聴いた、べートーヴェンの作品130のカヴァティーナ、そして、今日のアンコールのバーバー、どちらも心を抉る演奏で不覚にも涙を流してしまった。ツイッターにも書いたが、人間誰しもおそらく、心の奥深くしまった、根源的な思い、得たいのしれない複雑な感情というものがあると思うのだが、ミロ・クァルテットの演奏によって、蓋を開けられてしまった。