難しいタイトルにしてしまいました。
楽典というのは、日本独特のもので、海外にはあまりない科目だそうです。
やっぱり、学問にしてしまうのが好きな日本人ならではのように思います。
音楽を学問にしてしまうのは、いいですが、音楽や演奏そのものに悪影響を与えては本末転倒であります。

音楽や演奏に直に役立つ楽典ということで、昨年から、身近な言葉から入っていきました。
言葉の一つ一つにヒントがあるような気がしたからです。固定ド、移動ドもそうでした。
しかし、当たり前のように使われている言葉なのに、その言葉の定義すら怪しいことが多々あります。
固定ド、移動ドの定義から始まった洞察でしたが、そもそも、譜読みをどうしているか、そのあたりを避けて通っている方々もたくさんいることを知りました。しかし、それはとりもなおさず、音楽に譜読みはなくてもオッケーを証明したことにもなります。鼻歌に譜読みは必要でしょうか。譜読みができない人でも、天才的な歌手はたくさんいます。演奏家は……よく分かりません。

しかし、死んだ言葉にせず、演奏に役立つ話はたくさんあるはずだと思いたいです。というか、楽典というのは、その意味で宝庫なのではないか、と思っています。固定ド、移動ドは、それぞれ習熟したら、とても演奏に役立つというか、革命的変化をもたらすのではないか、という想像です。モードもそうです。
年々、正月は正月らしくなくなってきました。お節料理も家ではあまり作らなくなりました。
実際、正月から店は開いているので、お節料理を作る必要もなくなってきました。寂しい気もしますが。ただ、出来合の物で、お節料理っぽくレイアウトするのは簡単で、その方が手軽でいいような気もします。正月らしい情緒はなくなってきましたが、それでも、大型スーパーへ行けば、それらしい雰囲気で、子供たちも喜んでいます。

十五年前、編集作業は革命的変化をしました。その五年くらい前から、その予兆はありました。今、新たな革命が起きつつあります。過渡期というのは、いろいろ大変ではあります。しかし、十五年前のようなわくわくした気持ちであります。今度の変化は、十五年前のような規模でなく、それこそ、明治維新のようなダイナミックで劇的なものになると思います。十五年前は、秀吉でした。今年は、龍馬であります。
私が、中学生から高校に進学した頃と現在とでは、偏差値がだいぶ変化しているようです。私は神奈川県なので、当時(昭和45~47年あたり)、神奈川方式というのがあって、ア・テスト(アチーヴメント・テスト)と内申書と入試試験の三位一体で、県立高校の合否が判定されていました。私は、ア・テストが高校入試に関係するとは全然知らなかったのです。知っていたとしても、点数はあまり変わらなかったとは思いますが。それで、受ける県立高校は、ほぼ受かるところでした。というか、絶対に受かるところしか受けさせてくれませんでした。ですから、受けた高校は、県立高校の一校のみ。

多少の変化はあったとしても、現在もこんな感じかな、と思っていたら、かみさんに怒られました。
公立中学から、県立高校、それも偏差値の高い高校に受かることは、相当に難しいそうです。明らかに学力というのは、二分化しているようです。今頃、何寝ぼけているのか、と言われそうですが、子供たちは可哀想だな、と思います。

例えば東大に受かるための学力というのは、団塊の世代当時、相当に難しかったと聞きます。その後、世代が変わるにつれ、だんだんと下がってきていると聞きます。ですから、団塊の世代と現在の学生とでは、平均的に見れば、相当な開きがあるのではないか、と想像します。ただ、ソクラテスの時代から、最近の若者は、馬鹿になった、と言われ続けておりますが、それがそのまま現代に繋がっているとは思えません。ある部分で利口になり、他の部分で退化しているような感じもします。

インターネットやコンピュータを作り出した現代人はすごいと思うけれど、楽器演奏に関しては、退化しているという説もあります。ベートーヴェンのシンフォニーは、仮に楽譜通りに弾こうとしても、できないところが多々あります。当時の人はできたのでしょう。尤も、ベートーヴェンは、五十年後の進化を予想していたのだ、という説もあります。もし、そうだとしたら、ベートーヴェンの予想は裏切られたのかもしれません。あるいは、ベートーヴェンは、人のことなど、どうでもいい、ただ自分の世界を描きたかっただけなのだ、という説もあります。

いったい、人間は進化しているのか、退化しているのか。