ナボイ劇場
写真は日本人が関係したということで有名なナボイ劇場である。敗戦直後、シベリアへ連行されていた日本兵が、あるときこちらへ回されて、この劇場の建設にかかわったとされている。
先の大地震の際にもびくともしなかったことから「さすが日本人の造ったものだけある」と感心されたというが、これは作り話らしい。日本人がやって来た時には、建物の殆どは完成しており、彼らがやった仕事は干しレンガの運搬などの単純作業であった----と言う方が真実味があろう。
それにしても日本人をそこまで「買いかぶって」くれるのは、何ともありがたいことだ。
やって来た当時、日本人抑留者はボロボロの汚れた服装で、ガリガリに痩せていたという。毎朝、隊列を組んで仕事場に出かけ、整列して帰途に就く----そんな姿がなんともマガマガしくて、地元の人たちに「何だか恐ろしそうな人たち」という印象を与えていたそうだ。
そのうち、見慣れてくると、そのヨレヨレの元兵隊さんたちは、だれ一人怠けることもなく、毎日毎日、太陽に焼かれながら真面目に働いている。----そんな姿が地元の人々の心を開かせ、徐々に交流が始まっていったという。
お腹がすいて気の毒だと思った少年が、食べ物を差し入れたりすると、日本人は木切れでおもちゃを作って、お返しとしたんだとか----そういった話をいろいろガイド嬢が話してくれた。
若いお母さんのために、廃材で乳母車を作ってあげたという抑留日本人の話は、先日テレビでも紹介されていた通りだ。いずれにしても、あの過酷な戦場での経験の後で、なお、異国で このような暖かい交流が持てたこと、そして、彼らがお返しのプレゼントをするだけの精神的・肉体的余裕があったことに、心がほぐれてゆく。
ナボイ劇場
劇場のレリーフ
旧日本兵は、ここでは決して「捕虜」とは言われなかった。
「我々は日本と戦争をしたことなない。従って、彼らは捕虜なんかではないのだ。」と、前大統領のカリモフ氏は語っている。従って、右側のレリーフにも「捕虜」という言葉は使われておらず、ナボイ劇場建設には、日本人抑留兵も携わったと書かれている。
日本人墓地
「どれほど日本に帰って桜の花をめでたかったことか」----と思った中山恭子大使は、ウズベキスタンで亡くなった旧日本軍人たちの望郷の念を癒すべく、、この地に数千本の桜の木を植樹された。私たちが訪れた日、その桜が満開であった。(そのいきさつを記したのが『ウズベキスタンの桜』(中山恭子)という本になっている。)
墓は地元の心ある人たちによって、塵一つないほどに掃き清められていた。そして、埋葬者の名を記した石碑には折り鶴が掛けられていた。
この日も、墓守をしているという青年が挨拶にやって来たが、私たちは感謝の言葉を述べただけだった。あとで、北海道の人が書いた旅行記に、「心づけに10ドルを渡した。」とあったのを読んで、何で自分はそれに気づかなかったのだろう歯ぎしりする思いであった。彼はこの「墓守」を親から引き継いで、全くのボランティアでやっているというではないか!
オマケ:その1
『スレイマン』(オスマン帝国のハーレムを描いたTVドラマ)を観た人ならばお馴染みの「あの人」が、不動産の広告でカギを掲げて「あなたも いかがですか?」----と、誘いかけていた(キャアー!)
この人はこんな背広姿より、ターバンを巻いたオスマン帝国の凛々しい軍人の姿の方が、断然イイ!
オマケ その2
カリモフ旧大統領はじめ、ウズベキスタンの人たちはとても親日的だった。
かつて、外国人から見た開国直後の日本人の記録『逝きし日々の面影』(?)という本を読んだことがあるが、そこに描かれている日本人は、「子どもをとても大切にし、好奇心が旺盛である」----と記されていたよような記憶がある。丁度、私がこの旅で接したウズベキスタン人がそんな感じであった。
外国人とみればぐるっと取り囲んで、好奇心いっぱいに、まっすぐな視線を投げかけてくる。その黒くて大きな瞳を!
お向かいや お隣の国とのギスギスした関係が続く中で、この旅は久々に私の心を温かくさせた。
ついでながら、この国でも『おしん』が、たいそうな人気だったそうな。
日本人墓地へ向かうガイド嬢。 さようならナターシャ。楽しい日々と素敵なガイドを、ありがとう!
新しい旅がすでに始まっているというのに、ウズベキスタンへの思いを、今なお強く引きずっている。



