最近は海外でも、大きな都市ならお寿司屋さんが結構あちこちにありまして、出張中に日本食が恋しくなった時にはありがたいものです。

まあ、寿司って、ネタさえ新鮮なものが手に入れば作るのは簡単な料理なので、ヘルシーブームも手伝ってか、どんどん増殖しているのは当然かも知れません。


唯、依然として違和感があるのはその店名のネーミングであります。

普通のレストランだったら、オーナーの名前をつけるのが自然な成り行きなのでしょうが、お寿司屋さんの場合、例えば「ジョーンズ寿司」とか「ピエール寿司」ではサマにならないのです。全然イキでイナセな感じじゃないのであります。
如何に外国人でもその辺の美意識が多少あるのか?
そんな訳で何とか和風なネーミングを、と考えるみたいですが、あまり成功していない例が多いと思うのです。実際に日本人が必ずしもその経営に関与していない、という事も根底にはあるのでしょうね、当然。

まあ、地名をつけるのは常套手段で、


 「東京寿司」
 「京都寿司」


これらは時折見掛けます。大都市に必ず一軒はあるような気がします。
これも早い者勝ちというか、一都市で何軒も使える訳ではないので、次に、寿司に関連していると思える単語をくっつける事になります。


 「のり寿司」
 「マキマキ寿司」
 「寿司ワサビ」


ん?
それも思いつかないと、とにかく日本に関連した単語なら何かエキゾチックに聞こえるだろう、という作戦に出るようです。


 「スモウ寿司」
 「サムライ寿司」
 「コトブキ寿司」
 「フク寿司」 
 「ウカイ寿司」
 「寿司ひろば」
 「トラジロウ寿司」


この辺から徐々に違和感が漂ってきます。


 「あきたつ寿司」
 「寿司ウォック」
 「タイ寿司」
 「ヨー寿司」
 「ハビビ寿司」
 「ハッピー寿司」
 「ホーリー寿司」
 「寿司プラネット」
 「寿司エクスプレス」
 「寿司・ア・ゴー・ゴー」


段々、もうどうでもいいという感じが伝わって来ます。


上記は全て、実在のお寿司屋さんの店名であります。この命名傾向は何かの研究のテーマになりそうです。意外な言葉が外国の人の食欲をそそっているのかも知れないのです。んな訳ないか。


グーグルマップで、外国の都市を表示して「Sushi」を検索すると、結構寿司レストランはたくさん出て来るのです。是非一度、お好きな国でお調べ戴きたいと思います。


Takashi’s Unofficial Blog


某ホテルのミニ・バー。下のキャビネットの中に冷蔵庫が入っていて、上のガラスケースの中にワインやスナック類、またその上にはミネラルウォーターなどが、グラス類と共に格好良く並べられています。

ちょっとしたショーケースの様です。

細かい演出に気を使うホテルなのですね。


プリングルスのチビ缶も、こうしてショーケースに並べられて販売されれば本望だろう。でも彼には優しく言い聞かせてあげたい。背伸びしちゃいけないよん。4ユーロに見合うにはもう少し努力が必要だと。




9月9日、チューリップのギタリストだった安部俊幸氏が7月にインドで逝去していたことが、最後に所属していたビクター・エンターティンメントから発表されました。享年64歳。


折しもチューリップの盟友であり、同年齢であるドラマーの上田雅利が「When He Is Sixty-Four - 64歳になっても“彼”を必要としてくれるかい?」という、ビートルズの楽曲をなぞらえたツアーを行なっている最中に、安部氏はその64歳で亡くなってしまいました。


大変残念です。とても悲しいです。
チューリップ、そしてアベさん(ずっとそう呼んでいましたので、敢えてそう書きます)は僕の青春そのものでしたから。

「心の旅」で中学1年の頃にファンになり、それから間もなく初めてチューリップのコンサートに行ってから、チューリップ、そしてアベさんはずっと僕の心の師であり、支えでした。

チューリップは一昨年~昨年の40周年記念ツアーを最後に、再結成としての活動をも停止していますので、既に音楽活動としては過去のグループになりつつありますが、アベさんが亡くなったことで、改めて終わりの終わりを感じさせるような、大きな喪失感がぼくの心を包んでいます。


朝日新聞はじめ、主要メディアでも写真付きで報じられたことには、チューリップの存在の大きさを改めて知らされた思いでしたが、他方、アベさんの音楽的な功績に触れる記事は少ないのが少し残念にも思いました。
グループのギタリストとしての活動が主であり、ソロ活動などはほとんどなかったことがその要因かと思うのですが、でも、たとえば「心の旅」や「ぼくがつくった愛のうた」での表情豊かな間奏、「サボテンの花」のハンマリングを多用した印象的なイントロ、何よりライブでの「青春の影」における、財津さんのヴォーカルを支える情感溢れる伴奏など、アベさんの名前を知らなくても、そのフレーズは耳に残っているという人がたくさんいるのではないかと思うのです。


アベさんのギターは、メロディーメーカーとしてのセンスのみならず、チョーキングを多用した個性的なアーティキュレーションと、やはりすぐにアベさんとわかる絶妙なアタック感のピッキングで、チューリップのサウンドを独特なものにしていました。
あまりチューリップを知らない人はその成り立ちを知りませんが、チューリップはよくある友人同士の学生バンドがらプロに入って来た訳ではありませんでした。70年代初めに前進のバンドで中央(東京)でのデビューの足掛かりをつかんだ財津和夫が、博多を中心としたアマチュアのミュージシャンからベストを思える人材を選んで創り上げたグループだったのです。

当時は現在と違って博多と東京の距離は文化的・心理的には遠く、東京進出は彼らの多くには遠い夢であり、そうした独立した状況が音楽性の高い個性的なミュージシャンを輩出し中央に供給する下地になっていたのでした。キーボードの姫野、ドラムの上田、ベースの吉田、そしてアベさんなど、デビュー当時から演奏に定評を得ていたのには、そうした背景があったのです(それでもデビュー前にほぼ1年、財津和夫のグループの音楽表現への執念と強力なリーダーシップのもと、金銭的な苦労の中、相当に過酷な練習期間があったことがアベさんの初期のエッセイなどにはつづられていますが)。
因みに武田鉄矢のエッセイには、当時一足先にデビューを果たしたチューリップに対し、ものすごいジェラシーを感じたことが書かれています(ドラムの上田雅利は、海援隊で活動していたのを、財津和夫に引き抜かれたのです)


驚きなのは、デビューシングルである「魔法の黄色い靴」(1972年7月発売)のレコーディングの際には、アベさんは高校2年のときに買ったヤマハのアコースティックギターに自分でピックアップをつけたものを使っていたことです。当時、まだ本格的なエレキギターを手にしていなかったのです。
その後すぐにエレキギターを手にしたアベさんは、ピックアップの感度の良さと、それによって生じる「ミャッ」という感じのフィンガーノイズにとても苦労したと、後に1975年のPlayer誌のインタビューで語っています。しかし、アベさんはすぐにそれをマスターしただけではなく、エレキギターによる自身のアーティキュレーションを創り上げて、チューリップ・サウンドの要にしてしまったのでした。

そして、デビュー前後に手に入れたギブソンSGを使いこなせなくて苦労していたころ、彼のシンボルともなる赤いギブソンES-335TDというギターに巡り合ったのも大きな要素だったのでしょう。
(それにしても、ギブソン335を使うミュージシャンには、何故こうも、良く「歌う」フレージングの名手が多いのか不思議に感じます。ラリー・カールトン然り、リー・リトナー然り....)


彼は、チューリップのメンバーとしては財津和夫以外で唯一エッセイを数冊出版したことでも知られています。緻密な観察眼を軽妙な文章で包んだこれらの本もまた秀逸でした。残念ながら彼の著作のエッセイはすべて廃刊になっており、アマゾンで若干扱われていた中古本もここ数日ですべて売り切れてしまったようです。


父親を小学2年で早くに亡くしてからずっと母子家庭で育ち、成功したのちも一人旅を愛したアベさん。晩年をインドで暮らしていたのも、孤独と異文化を愛した氏らしい姿だったのかも知れません。


ここ数日、過去のチューリップのライブ・アルバムばかり聴いています。アベさんの明るく語りかける"バリン声"のMCと、美しいギター・ソロを聴いていると、懐かしさと寂しさで涙が出そうになります。
でも、ずっとチューリップ、そしてアベさんの思い出は皆の心の中で生き続けます。


ご冥福をお祈りします。