なんか、すごーく長くなった。

 

 

まず「生きること」

 

何の意味もない。生まれてきたから、死ぬまで生きるだけ。

もし意味を持たすのであれば、自分で定義すればいい。

 

以上

 

私に関しては、死ぬことに大きく関わるので続きをどうぞ。(;´▽`A``

 

 

次に「死ぬこと」

 

「死」に対して思うことはいろいろある。

 

「死」は身近にならないと実感が湧かない。

 

 

最初に「死」を感じたのは、

フリーアナウンサーの逸見政孝さんが亡くなったときである。

1993年に亡くなったので、当時私は高校生くらいだった。

 

それまで全く死には無縁で、

テレビで見ていた人が亡くなったと聞いて

驚いたのをよく覚えている。

しかも48歳という若さである。

死因のがんも当時はよくわかっていなかった。

 

ちなみに3歳くらいの頃に父方の祖母が亡くなっているが、

幼かったせいもあり、ほとんど記憶にない。

 

 

 

祖父(父方)の死

次に「死」を感じたのは、祖父が亡くなったときである。

 

祖父は、私が社会人になってすぐに亡くなった。

祖父とは同居していたのだが、

私は物心つく頃から部屋に引きこもっていたので

ほとんど会話した記憶がない。

当時の私は部屋に引きこもることを悪いこととは

全く感じていなかった。

 

祖父と父は、父の学生時代に進学のことで

一悶着があったみたいであまり仲がよいわけではなく

祖父は同居していながら、家族の中で孤立していた。

 

祖父の晩年に、孫としていい思い出を作って

あげれなかったことはいまでも後悔している。

 

親と同居することはあまりいいことではなく、

ある程度距離感があったほうがよいと

祖父の死を経験して知る。

 

 

祖母(母方)の死

祖父の死からしばらく「死」から遠ざかっていたが、

私が30代の半ば頃に祖母の体調がよくないと母から聞く。

 

私はおばあちゃん子で小学生時代はよく祖母の家に泊まりに行っていた。

 

高校生くらいから祖母の家に行くことが減り、

社会人になってからは法事のときしか行かなくなっていた。

祖母の体調がよくないと聞いてまもなく祖母が亡くなった。

 

祖母はどちらかというと長生きしたほうなので

寂しい想いはあったが悲しくはなかった。

 

ひとつだけ気になるのは

私が祖母の体調がよくないと聞いたのが、

亡くなる直前だったこと。

 

あとから話を聞くと、体調がよくない状態は長く続いていたらしい。

母がその情報を私を含む私の兄弟になぜ伝えなかったのかいまでもわからない。

 

 

母の死

それは突然やってきた。

祖母(母の母親)の死からたった1年後の話である。

 

次女を妊娠したとき、妻は切迫早産で入院していた。

長女(当時2歳)の世話もあったので、

実家に帰って、両親の世話になっていた。

 

ある日、居間でくつろいでいると、

両親がいつになく真剣な面持ちで話すことがあると切り出した。

 

母に病気が見つかり、入院しなければならないので、

長女の世話を見れなくなったとの話だった。

 

そして、その病名は「膵臓がん」である。。。

 

 

ほんの数か月前、

私は「ブラックジャックによろしく」という漫画を読んでいた。

 

その中に「膵臓がん」の話があった。

膵臓がんの余命は半年ほどだと描かれていた。

 

漫画で読んだとき、まさか自分の母親が膵臓がんになるなんて

微塵も思っていなかった。

 

 

母が私にどの程度、膵臓がんの知識があって話をしたのかわからない。

 

ただ、いまでもハッキリ覚えているのは母が言った次の言葉、

 

母「私は大丈夫だから!」

 

なにが大丈夫なんだよ。。。

 

本人が一番つらいのに私の身の回りの心配をしている。

これが母親というものなのか?と衝撃だった。

返す言葉がなく、ただ受け止めるしかなかった。

 

それから半年、

みるみるうちに痩せ細っていく母を見るのがつらかった。

見られる母はもっとつらかっただろう。

 

もう残りわずかしかないときに

子供たち一人ひとりが母と話をする時間が設けられた。

 

母と二人の病室。

 

いろいろ話したかった。

感謝の気持ちを伝えたかった。

でも出来なかった。

 

それを話すということは、母の死を認めてしまうと思ったから。

 

わずかな希望にかけて治療を受けているんだ。

認めるわけにはいかない。

 

母からはほんと他愛のない話しかなかった。

 

幼い頃は末っ子ということで

すごく可愛がってもらった気がするが

小学校3年か4年頃から部屋に引きこもる子になり、

そこからずっと息子として

いい子だったとは言えないし、思えない。

 

話すこともないほど、

母にとっていい子ではなかったのか、

いまでも答えはわからないが病室から出るとき、

すごく悲しかったことを覚えている。

 

治療の甲斐なく、約半年の闘病のあと息を引き取った。

 

最後、緩和ケア病棟に移り、ほぼ昏睡状態になり、

医者から覚悟するように言われた。

 

家族で代わる代わる見守る日々が続いた。

 

ある夜、次の日仕事だから帰ると母に声をかけた。

 

それまでほぼ昏睡状態でなにも反応しなかった母が

なにか言葉を発しようと身体を動かした。

 

部屋にいたみんながビックリして、

挨拶でもしているのかね。

という話でそのときは終わったのだが

その翌朝、母は亡くなった。

 

あれは母からの最後の挨拶だったんだと思う。

 

私はこのとき30代半ばくらい。母は60代半ばで、

まさかこんなに早く母を亡くすとは思っていなかった。

 

 

父の死

父は50代の頃から何度かがんを含む大病を経験している。

命が危険なときもあった。

 

母が亡くなり、父は実家に一人で暮らしていた。

元々、しっかり者の父は生活すること自体は何の問題もなかった。

だが母が亡くなって少し経って、がんが再発した。

 

父はこのとき70代、

お腹を開く大きな手術も経験していたため、

手術での治療は難しかった。

 

抗がん剤治療を続けたが、状態は悪くなる一方で、

けっきょく母が亡くなって1年半後に逝去した。

 

父に関しては何度か大病していたこともあり、

はやく亡くなったという感じはなかった。

 

生活することに対して、

一人でもまったく心配はしていなかったが、

孤独という点では心配があり、実家には頻繁に帰っていた。

 

がんが末期になると、入院生活になった。

入院するとみるみる弱っていった。

 

あるとき、医者から「緩和ケア病棟」に移ることを

検討してほしいという話があった。

 

家族で考えることになり、

父は、判断は子供たちに任せると言った。

 

苦しい思いをしている父に少しでも楽になってもらいたいという想いから

私は緩和ケア病棟に移すでいいと提案し、それが通った。

この決断はあとあと後悔に変わる。

 

「緩和ケア病棟」に対してみなさんは

どのようなイメージをお持ちだろうか。

 

いろんなイメージがあるかもしれないが、

結論として「緩和ケア病棟」に移ったら近いうちに死ぬことになる。

 

母も最後に「緩和ケア病棟」に移ったが、

私は上に書いた事実を父のときに実感した。

 

なぜなら母のときは明らかに衰弱していて死が近いことがわかっていたし、

「緩和ケア病棟」に移すことを決めたのは、父と兄だったからだ。

 

ここからは想像でしかないが少なくとも父は「緩和ケア病棟」を選ぶことと

「(近くに)死ぬこと」は同じ意味だということを知っていた。

 

判断は子供たちに任せる。

そして、子供たち(私)は「(近くに)父が死ぬこと」を選んだ。

 

なんて残酷なんだろうか、そんなつもりはなかった。

 

すまない、父さん。

 

 

なお、父にも感謝の気持ちを伝えるチャンスはいっぱいあった。

 

でも母のときと同じで、最後の想いを伝えるのは

父の死を認めることでやはり出来なかった。

 

葬式の前、自宅に戻ってきた父。

父の亡骸の前で感謝の気持ちをいっぱい言った。遅いよね。。。

そして、母のときと同じくいい息子ではなかったと思うということも。

 

 

私にはもう両親はいない。30代で両親を亡くした。

 

もっと早くにご両親を亡くした人もいっぱいいるだろうが

私の中では考えていたよりも早く逝ってしまった。

 

震災等の事故で大切な人を亡くした人もいっぱいいるだろうから

自分が誰よりも不幸なんだとかそういうことは言わないし、思ってもいない。

 

これらの経験がベースになっているのかわからないが

「死」に対しておそらく他の人とは違う考えを持っている。

 

 

ではここから私の考える「死」について書きたい。

 

結婚して自分の家を持って生活していると、

両親から離れて暮らすことになる。

離れて暮らしているが、実家には両親がいるという感覚。

これは普通に誰しもが持っていると思う。

 

これが両親が亡くなってもあまり変わらなかった。

両親が死んだ事実はあるが、まだどっかにいるような感覚。

認めたくないわけではない、

もしかしたら私は薄情なのかなと思ったこともある。

だがそれは私にとって絶対的な「安心感」であった。

 

この感覚はなんなのだろうと考えてみた。

そこで気付いたのは、両親は私の中にいるということ。

思い出を含む両親と過ごした記憶という意味である。

 

別にスピリチュアルな話がしたいわけではない。

普段、スピリチュアルなことが好きというわけでもなく、

本当にこう思っただけ。

 

 

「死」はいつかやってくる。

 

そのときまでに大事な人の中に

自分という存在の記憶を残すことが出来たら

肉体的には死んでいるかもしれないが、

存在は生き続けるのではないだろうか。

別に不死は望んでないけど不死も可能だなと割と本気で思う。

 

これが私が「死」に対して考えていることだ。

 

 

私が大事なのは、家族である。

そして、この「死」に対する考えをもって決めていることがある。

 

妻に対してはちょっと自信がないのだが

娘二人に対して、いまから申し訳ないと思うことが1つある。

 

それは、私が死ぬとき、娘はめちゃくちゃ泣くことになるだろう。

というか、「泣かせてやる」って感じが強いかな。(^▽^;)

そのくらい、お父さんが好きで、亡くなったら悲しむように育てている。

 

いまのところ、順調で娘二人とも思春期に突入しているが、

世間で言われるような「お父さん、嫌い」の症状は出ていない。

 

もちろん娘に媚びているわけではない。なんのことはない。

大事にする気持ちと言動が伴えば、嫌われる要素が思いつかない。

 

「ミルクあげからのげっぷ」

「うんちはみ出るオムツ替え」

「危険な道路でしっかり握った手」

「誤った考え・性格にならないように常に見守ること」

 

過度な干渉は行わず、のびのびしているが真っ当ないい子に育っている。

 

 

娘よ。父が死ぬときはめちゃくちゃ泣くが、すぐにスッキリするだろう。

大丈夫だ、お父さんは君たちの中にいる。ずっと見守り続けるよ。

 

失って後を引くのは、後悔があるときだ。

後悔なければ意外とスッキリし、前を向けるはずだ。

 

いま死んだら流石に少しモヤるだろうから

君たちが成人になるまではなんとか生きたい。

少なくともあと10年はいっぱい泣かすために頑張ります。

 

 

私は両親をがんで亡くしたサラブレッドだから、長く生きる自信はない(;^ω^)

死は恐れていないが、苦しみたくないのでピンピンコロリに向けて健康第一で生きたい。