延暦寺。
山号は比叡山。天台宗総本山。
寺名よりも比叡山、叡山とよばれることが多い。北嶺ともよばれた。
山全体が寺域で、東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三塔からなる。

延暦7年(788年)最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院を建立し開山。
やがて朝廷から開創時の年号である「延暦」を寺号に賜った。
高野山とならび平安仏教の中心であり、密教(台密)、禅、念仏なども行われ、総合仏教としての
教義を確立する。
その後最澄の意志を引き継いだ円仁や円珍が台密を発展させた。

円珍の死後、比叡山の僧は円仁派と円珍派に分かれ対立するようになり、
円仁派が比叡山を占めると円珍派は山を下りて園城寺に入った。
以後、比叡山の「山門派」と園城寺の「寺門派」で対立し、抗争を繰り返す中から僧兵が現れる。
比叡山の武力は年々強まり、白川法皇には「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心のまま
にならぬもの」と言われている。(強い権力があっても制御できないものの例え。)
当時奈良興福寺の僧兵と並び「南都北嶺」と恐れられた。

また、仏教の総合大学としての性格も持つ比叡山は、多くの名僧を輩出しており、
法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元ら鎌倉仏教の開祖も比叡山で学んでいる。

最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたといわれるが、
戦国時代に浅井・朝倉軍を匿ったこと等が発端となり、元亀2年(1571年)織田信長により
全山を焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰した。
信長の死後は豊臣秀吉や徳川家康、南光坊天海らによって再興された。
「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されている。


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比叡山から望む京都。


以下は東塔。
比叡山三塔の中心で延暦寺発祥の地。
延暦寺総本堂の根本中堂をはじめ重要な堂宇が集まっている。
見学所要時間は1時間~。


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大講堂。
寛永11年(1634年)の建立。
幾度も焼失しており、現在のものは昭和31年(1956年)の焼失後に
坂本(東照宮)にあった讃仏堂を移築したもの。
国重要文化財。
本尊大日如来や各宗派の始祖を祀る。


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鐘楼。


$史跡へ行こう!ブログ-延暦寺根本中堂1
根本中堂(廻廊の奥)。
比叡山第一の仏堂。
寛永19年(1642年)徳川家光により再建。
県内最大の木造建造物で、桁行11間、梁間6間。
国宝。

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根本中堂。
最澄作といわれる秘仏薬師如来を祀る。
宝前には開創以来の「不滅の法灯」が1200年以上灯り続けている。
(実際には、織田信長の焼き討ちにより一度途絶えたが、それ以前に
山形立石寺に分灯していた法灯を移し現在まで継がれている。)

$史跡へ行こう!ブログ-延暦寺根本中堂3 $史跡へ行こう!ブログ-比叡山根本中堂廻廊
根本中堂廻廊。
寛永19年(1642年)再建。
中庭を囲んでコの字型に建つ。
国重要文化財。


$史跡へ行こう!ブログ-延暦寺文殊楼
文殊楼。
根本中堂東の階段の上に建つ。
円仁が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って創建した。
その後は幾度も焼失し、現在のものは寛文8年(1668年)焼失後の再建。
上層には文殊菩薩を祀り、登ることもできる。
根本中堂の正門でもある。
市指定文化財。


$史跡へ行こう!ブログ-延暦寺大黒堂
大黒堂。
本尊の大黒天は毘沙門天・弁財天と一体と
なった三面大黒天。
大黒天信仰発祥の地。


$史跡へ行こう!ブログ-延暦寺戒壇院
戒壇院。
延宝6年(1678年)の再建。
裳階をつけているので二重にみえるが一重。
国重要文化財。


$史跡へ行こう!ブログ-延暦寺阿弥陀堂
総持院阿弥陀堂。
昭和12年(1937年)の建立。


$史跡へ行こう!ブログ-延暦寺総持院東塔
総持院東塔。
昭和55年(1980年)の建立。
阿弥陀堂の横に再興された。



延暦寺②(西塔)へ続く。