いつかの続編…

ここも新選組ゆかりの地
千葉県流山市は、
「近藤×土方、別離の地」
…そして近藤勇が捕縛されてしまった場所。
あんまし観光地ではないのですが、静かに新選組を応援してるように感じます。

新選組に守られている町だね
流山市博物館もオススメです。

勇凧

2005年大河の頃、“黒地に赤の隊服”の「流山新選組」が活動して盛り上げていましたね~
当時、とても親切に案内していただき、ダイナミックな殺陣も見せてもらいましたね

大砲も開発したの??
じつは来流祭に参加したことがあります
永倉新八の子孫の方の講演会もその時に拝聴しました。

せつなすぎる、せつなすぎる…大河ポスター。
記念撮影パネルも

よ~く見ると倒れないように、ロープで補強されていて…?
首が“お縄”になってるよ~
すでに“捕縛されてる”カンジじゃないっすか
「流山本陣」


流山に流陣した新選組が本陣を置いたのは、味噌醸造業を営む長岡屋といわれるが、嶋屋、鴻池など異説もある。

このとき、一般的な「鎮撫隊」と名を変えてカムフラージュしていた新選組…。
甲州勝沼の戦で負け、ここ流山から、逆転の巻き返しを謀りたかったのだが…

慶応4年(1868)4月2日朝に流山に到着した新選組は、本陣のほか近隣の光明院などに分宿。
近藤勇ら数人しか残っていなかった本陣は、翌“3日の午後”に新政府軍に包囲されてしまった。

一時は諦めて腹を切ろうとしたのだが…。
自分は、近藤勇ではなく大久保大和である!
見破られないことを願いながら近藤は出頭。
一方、土方は近藤救出の機会をうかがい奔走する。
“近藤勇、土方歳三との別離”

慶応4年(1868)4月3日午後十時頃、近藤は新政府軍とともに流山を出発し越ヶ谷へ…

つまり、流山には実質2日~3日くらいしか滞在していなかったんだ…ね

しかし…この後、かつて新選組隊士だった加納鷲雄ら御陵衞士残党によって、近藤勇は正体を見破られてしまうのだった


お天気だった先日、“彩の国”からココまで自転車で来ました
ちなみに、この日ボクは近藤護送ルートを逆のぼって流山に辿り着きました

ここ、千葉県流山からも、遠くの空にうっすらと東京スカイツリーが見えました

おしまい


ここも新選組ゆかりの地

千葉県流山市は、
「近藤×土方、別離の地」
…そして近藤勇が捕縛されてしまった場所。
あんまし観光地ではないのですが、静かに新選組を応援してるように感じます。

新選組に守られている町だね

流山市博物館もオススメです。

勇凧


2005年大河の頃、“黒地に赤の隊服”の「流山新選組」が活動して盛り上げていましたね~

当時、とても親切に案内していただき、ダイナミックな殺陣も見せてもらいましたね


大砲も開発したの??じつは来流祭に参加したことがあります
永倉新八の子孫の方の講演会もその時に拝聴しました。
せつなすぎる、せつなすぎる…大河ポスター。
記念撮影パネルも


よ~く見ると倒れないように、ロープで補強されていて…?
首が“お縄”になってるよ~

すでに“捕縛されてる”カンジじゃないっすか
「流山本陣」

流山に流陣した新選組が本陣を置いたのは、味噌醸造業を営む長岡屋といわれるが、嶋屋、鴻池など異説もある。

このとき、一般的な「鎮撫隊」と名を変えてカムフラージュしていた新選組…。
甲州勝沼の戦で負け、ここ流山から、逆転の巻き返しを謀りたかったのだが…


慶応4年(1868)4月2日朝に流山に到着した新選組は、本陣のほか近隣の光明院などに分宿。
近藤勇ら数人しか残っていなかった本陣は、翌“3日の午後”に新政府軍に包囲されてしまった。

一時は諦めて腹を切ろうとしたのだが…。
自分は、近藤勇ではなく大久保大和である!
見破られないことを願いながら近藤は出頭。
一方、土方は近藤救出の機会をうかがい奔走する。
“近藤勇、土方歳三との別離”

慶応4年(1868)4月3日午後十時頃、近藤は新政府軍とともに流山を出発し越ヶ谷へ…

つまり、流山には実質2日~3日くらいしか滞在していなかったんだ…ね


しかし…この後、かつて新選組隊士だった加納鷲雄ら御陵衞士残党によって、近藤勇は正体を見破られてしまうのだった



お天気だった先日、“彩の国”からココまで自転車で来ました

ちなみに、この日ボクは近藤護送ルートを逆のぼって流山に辿り着きました


ここ、千葉県流山からも、遠くの空にうっすらと東京スカイツリーが見えました

おしまい