開け放しになった窓の外から、生温かい風がふわりと吹き込んできた。
温かく柔らかい風は、夏がすぐそこまで迫っている事を知らせているかのように教室の中を飛び回る。
だが、それはねっとりとした湿り気を帯びていて、お世辞にも心地がよいと言えるものではない。
それでも、明るい日差しに照らされた勾配に並び立つ新緑たちは、風のに揺られて心地よさそうに囁き合いながら、彼の季節の到来を心待ちにしているようだ。
「人類が“終わる”……か」
深沢 燈夜(ふかざわ とうや)は、自分以外誰も居ないがらんどうな教室を見渡しながら呟いた。
週初めの月曜、時刻はもう既に十二時を過ぎていると言うのに、学校には生徒はおろか教員すら数えるほどしか来ていない。
教員が足りないのでは普通の時間割で授業をする事もままならず、殆どの時間が自習時間と化してしまっている。
そんな中、決して休むことなく学校にやって来ている数少ない教員が鳴らすベルだけが、学校がまだ完全に機能を停止していない事を知らせている。
完全に機能を停止していないのは、何も学校だけではない。
この街は、他の場所に比べて大いに恵まれている、少なくとも、燈夜にはそう思える。
ごく少数、とても限られた人々ではあるが、この街には、リズムを変えることなく、社会における自らの役目を勤めようとする人がいる。
それは、バスの運転士であったり、小さな商店の店主であったり、料理屋の主人であったり。
形は違えど、この街にはまだ、そういう人々が居る。それだけでも、この街はまだ“生きて”いる。
「やっぱりここか、探したぞ」
突然教室の扉が開き、大儀そうな様子で一人の男子生徒が入ってきた。
見知った顔、声、燈夜はなにか懐かしいモノを見るような表情で扉の方を見る。
するとその視線に気づいた彼は、面白い悪戯を思いついた子供のようにニヤリと笑んだ。
「こんな所に来る意味なんてねぇッつうのによ、つくづく律義だよなぁ、お前」
「明良(あきら)にだけは言われたくねぇ、お前だって最初から居たくせに」
燈夜はそう言いながら苦笑いしつつ、椅子から立ち上がり、自ら明良と呼んだ男子生徒に体勢ごと視線を向け、机に腰を下ろした。
どこか意外そうな表情をしながら肩を竦め、明良が燈夜に歩み寄ると、それと同時に、中途半端に湿った風が、またふわりと教室の中に吹き込んできて、燈夜の髪を静かに撫でる。
「朝もずっと裏門のとこで立ってたろ、ご苦労なこって」
「一応風紀委員としての務めを……な」
天田 明良(あまた あきら)はそう言ってからからと笑い、燈夜の前にある生徒用の椅子に腰掛ける。
そして、いつも昼休みを過ごす風に、机に頬杖をつき、携帯電話をいじくりだす。
といっても、通話やメールの相手が居るというわけではない。ただ、開いたり、閉じたり、時々ふざけて音楽を鳴らしてみたり、そんな事をするだけだ。
「バカみてぇな話だろ? だーれも来ないのはわかってるってのによ」
天田 明良は、燈夜の十年来の顔見知りだ。
同時に最高の腐れ縁であり、小学校から高等学校に至るまで、ついには進路までもが同じと言う、神様の性質の悪い悪戯としか言いようがない境遇をもつ。
しかし、それが故に二人の間には並々でない信頼関係があった。
まるで兄弟のように、頼り合い、同じ時間を共有する事によって築き上げられてきた絆は、何にも代え難い燈夜の宝だ。
「残り少ない時間をもっと有意義に使えよ」
燈夜が少し馬鹿にしたような笑みを浮かべながらそう言ったのを、明良は肩をすくめて受け取る。
「有意義も何もねェって、たった一日で何しろってんだ」
「まあ……そりゃそうだけどよ」
言葉を濁す。
その一日の価値観はそれぞれで、それを有意義にしようとかというのは、個人の感覚に委ねられる。
ベッドの上でだらだらと過ごす一日が、ある人にとっては有意義かもしれない。
予定が秒単位で詰まったスケジュールをこなす一日も、ある人にとっては無意義なものなのかもしれない。
何より、この状況下で“有意義”や何かといった、時間に価値を付加しようとする発言自体がナンセンスだった、と燈夜は思う。
“あの日”から、時間に貴賎はなくなった。
本来、終点など存在しないはずの時間に、“向かうべきところ”が出来て、それに向かってただ進むだけの、一つの“数値”となった。
そして、その“向かうべきところ”とは――――
「今更あがいたってどうしようもないしな」
明良は静寂の中に消え入るような、とても小さなため息をつくと、もう一度燈夜の顔を覗き込む。
そして、少年漫画の主人公が登場一番に見せるような、絵に描いたような明るい笑みを浮かべた。
「俺はできる限り多くの人に“また明日な!!”って言ってやる事にしたんだ」
“また明日”
それがどれほどの意味をもつのか、明良はわかって居るのだろうか。
それ単体でも強い皮肉をはらんだその言葉は、日が暮れるにつれ、残された時間と相俟って不気味な残酷さを帯びるだろう。
だが、あえてその言葉を選び、そう言ってやると意気込む明良の目には、何か明るいものがともっていた。
「……お前らしいよ、それ、すっごく」
そういう部分に、燈夜は明良の明良らしさを見出した。
その言葉の重みなど、きっと明良は理解などしていないのだ。
否、知っていても、わざと知らない振りでごまかしているのだろう。
「やだな、褒めたって何もないぜ!!」
ふざけたように明良がそう言うと、燈夜はわざとまじめな表情を作って、首を横に振ってみせる。
明良は「違ったのか?」とでも言いたげな表情で燈夜の顔を見つめ、首をかしげる。
燈夜の中に生まれでた小さな笑み。
それが、いつしか二人の高らかな笑い声に変わる。
いつもと同じ、その筈なのに、その一瞬一瞬が、燈夜にひしひしと“最後”を感じさせる。
“一か月後に、人類の文明は終わりを迎える”
そんな荒唐無稽な説を提唱したのは、世界が信頼を置く災害予測コンピューター、IDCS(International Disaster Calculation System)だった。
IDCSは半世紀も前に開発され、何度もアップデートを繰り返して今まで使われて来た世界規模の未来予測システムだ。
太平洋の中心に浮かぶ、広さおよそ30ヘクタールの人工島に設置され、地殻変動や風雨の強さ、また太陽光の強さなど何千項目と言う自然的要因の中から自然災害の可能性を指摘する。
その予見的中率は八割を越し、今までに世界中の何億の命を救ってきたとさえいわれている。
だがその実、このコンピューターに関する情報は一般人には一切公表されていない。
自然的要因の中から云々、予見的中率は八割を云々と言うのも、一般人が知りえる範囲の話であり、真偽の程は疑わしい。
しかし、IDCSの信頼が厚いのは事実であり、その予見によって多くの命が救われているのも事実。
真偽の程が疑わしいという部分も、その有用性を考えてみれば宙を舞う埃ほども気にするに値しない。
たしかに、その予見はあまりにも突飛過ぎ、予見を正当たらしめる根拠も一切無かった。
だが、それまでに蓄積してきた実績と信頼は、“根拠”という信頼要素にも霞みをかけてしまった。
その日から、それが、時間の“向かうべきところ”となった。
IDCSの発表から三日あまりで、世界中の主要都市はほぼ廃墟と化した。
再三の暴動や騒乱によって、殆どの国は国としての機能を失ってしまった。
人々は今更どこに逃げようと言うのか、自分の住んでいる土地から離れて行った。
そんな中、日常を決して曲げようとしなかった人々も少なからず居る。
そういう人たちの力によって、一部の地域は最後まで社会としての意義を失いはしなかった。
燈夜たちの住むこの町も、そんな限られた地域の一つだ。
「結局最後まで何も変わらなかったよなぁ、俺たち」
いつもと同じ帰り道、西に傾きはじめた太陽を横目に、燈夜は小さな声でしみじみと呟いた。
中心街の喧騒、友達との楽しい一時、バスの中でうたた寝する心地よさ、乾いた草の匂い。
町角で感じる懐かしさと、どこからか漂ってくる誰とも知れぬ家の夕飯の香り。
この街の中では、その全てが不変の日常だった。
「こんな簡単に終わっちゃうのか……」
「最後まで解らねェよ? 明日、もしかしたら普通に一日始まってるかも」
「でも、IDCSの的中率は……」
「お前も、あんな訳わからん機械の言う事を信頼すんの?」
明良はただ明るく、だがそれでも少し硬く不自然な笑みを浮かべ、燈夜の辛気臭い顔を覗き込んでいる。
燈夜はその笑みにつられて、ふわりとやわらかい微笑みを浮かべた。
「……そうだな」
燈夜には、それ以外の言葉を選ぶ余地は無かった。
明日何が起こるかなど、実際に明日になってみないと解りえないものだ。
明良の言うとおり、明日はまた普通に巡りまわって来るのかもしれない。
確率論なんて大それたものではないが、そういう可能性は十分に有り得る。
人間の知覚する世界はいつでも、人間の予想を逸脱して時を刻んでいるのだから。
「お前のそういう所、羨ましいぜ」
「ひひッ、真似してみるかい?」
明良が冗談のようにそう言ったのを境に、二人の会話はぷっつりと途切れた。
何かがひっかかって詰まったように、言葉が上手く出てこなかった。
これが最後の“日常”になるかもしれないというのに。
募る思いと言葉は、ここ一番と言う時こそ出てきてはくれない。
否、あるいは二人の間に、言葉など必要はないのかもしれない。
言葉が途切れたというのは、声で伝えるべきことはもうなくなったという事。
後は、静寂の中で二人の思いが静かに交差するだけだ。
「明良」
「……んぁ?」
「また明日な」
不意をつかれたような表情から、柔和で奥ゆかしい微笑みへ。
「お前に先に言われちゃあな」
明良は、静かにそう言って燈夜に掌を差し出した。
燈夜はその掌を握り、明良の眼を見て微笑みを浮かべる。
明良の手は氷水にさらされたかのように冷たく、強く握らなければ解らないほど、小さく、とても小さく震えていた。
「じゃあな、燈夜」
その言葉の後、お互いに背を向ければ、視界に人の姿は無くなった。
代わって視界に映ったのは、真っ赤な夕焼けに染まった大きな空と、人気のない住宅街の小路。
それでも、そっと振り返ってみると、そこにはいつもと同じように、道の向こうに歩み行き、小さくなっていく明良の背中があった。
もし本当に、明日で“毎日”が終わるとしたら、これが永遠の別れになるかもしれない。
それでも、二人はあえて「また明日な」と言って、それ以上の言葉は交わそうとしなかった。
明良の言葉は、すがすがしいほど楽観的な希望的観測に満ち溢れていた。
燈夜は彼の言葉の前に、“最後だから”と焦り募る思いと言葉の全てを吹き飛ばされてしまったのだ。
“明日、世界が終わる”と決めつけた時点で、明日は既に“滅亡している”と、彼の言葉は、燈夜に意図せずそう教えていた。
「また明日……か」
燈夜はとても小さな声でそう呟きながら、人気の無い小路に一歩、足を踏み出した。
地球が“世界の終わり”という大きな転機を迎える、明日と言う日をただ待つだけの今に、漠然とした希望を抱きながら。
世界が終わるまで、あと七時間と十九分。