平泉雪成はスタインウェイのグランドピアノの前に座って眼を瞑った。
 周囲の雑音が小さくなる。ここに全てを賭ける。後はない。しかし、不思議と清々しい。
 指揮者であり、師匠の松永は平泉のタイミングを待ってくれている。

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 雪成、さぁ、始めるぞ、最後の、そして始まりの序曲を。

 ガーシュウィンのピアノ協奏曲。ラプソディインブルー。ジャズのような協奏曲。しかし、確かな技術が求められる難曲。優しく包み込むよつな旋律が得意な雪成には少しイメージが違う。しかし、それを超越して新たな扉を雪成に開かせるにはこの曲が一番良いと思った。

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 いくぞ。
 平泉は眼を開いた。目線を上げると松永が真剣な瞳で平泉を見つめていた。
 平泉は小さく頷く。
 松永はそれを確認するとゆっくりとしかし大胆にタクトを振った。

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 クラリネットの滑稽な音から入る。なかなかやる。さすが私の弟子の一人だ。みんな今日は楽しく飛べ。どこまでも。
 さぁ、ここからだ雪成。最初の一音が肝心だ。行け。

 よし、そうだ。
 良い音の入りだ。
 吹っ切れたのか。諦めたのか。私にはわからないが、先のことは考えず思い切りやろうじゃないか。私たちの最初で最後のダンスだ。人前でのダンス。この日がようやく訪れた。私の全てをお前に授けたのだ。音大など入っていなくとも、やれることを証明して見せろ雪成。

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 クラリネットの山根さんはとてもうまい。クラシック界では既に有名だが、その傍らジャズライブにも多数出演している。そんな人とのガーシュウィン。

 行くぞ。
 一音目が肝心だ。今夜は楽しく踊ろう。
 
 煌めくような音の入り。良い感じだ。指が動く。始めの一音のお陰でスムースに入ることができた。
 小気味のいいリズムに乗せて、打鍵を加速させる。左手の低音も今日は特に意識して踊ろう。
 両手で同じ音を響かせる最初の盛り上がり。そこから階段を降りてはジャンプしてまた降りるようなメロディを軽快に響かせる。もはや身体も浮き上がり始める。
 
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 平泉くん…まさか本当に会えるなんて。
 嵯峨野飛鳥は舞台袖からガーシュウィンを聴いていた。
 今ピアノを弾いているのは、高校生の時、ジュニアコンクールで最後に会った平泉雪成だった。

 ガーシュウィン、ラプソディインブルー。技巧の求められる難曲。ジャズの要素があちこちに散りばめられている。
 昔の平泉にはない軽快さ。かなり練習したことを伺わせる。それよりも、音大に行かずにずっと続けていたなんて。なんで音楽の道に進まなかったのだろう。多感な時期、きっといろいろなことがあったのだろう。今更ながら、自分は王道を歩んでいられる状況に嵯峨野は感謝した。

 曲も終盤。平泉のアドリブが始まった。
 まるでジャズ。クラシックにアドリブはないはずだけど、これは自由なコンサートだ。
 やるじゃない。あの時とはもう曲調も顔つきも明らかに別人だわ。優しい面影はあるけれど。

 さて、そろそろ準備しないとね。
 嵯峨野は自分のヴァイオリンを開けて調弦した。サプライズの登場。平泉はちゃんとやってくれるだろうか。いや、あの腕ならやれるわね。

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 今日はコンクールでもなければ、音楽界の重鎮が集まるコンサートでもない。自由に行こう。ガーシュウィンの途中はアドリブで。
 松永教授からはそう指示があった。

 今までジャズも練習させてもらっていたのはこのためだったのかと思う。もう何年も前から計画されていたのだ。

 平泉は感謝を音で返さなければならないと思った。いままで聴いてきたジャズを思い出しながらアドリブを炸裂させる。クラシックとは異なる音に観客も多少驚いている。しかし、会場の雰囲気はちゃんと平泉を受け入れてくれている。

 さぁクライマックスだ。各パートとも、楽器のソロが会場を一層盛り上げる。
 最後はピアノの旋律が駆け抜ける中、全ての楽器が大団円を迎え、曲は圧倒的なフィナーレを迎えた。

 一瞬の静寂のあと、場内は割れんばかりの拍手。平泉は松永を見た。松永の眼には涙が溜まっていた。
 観客に向かって丁寧に礼する平泉。指揮台から降りてきた松永が平泉の手を取り、二人握手をしてその手を掲げ、再び礼をする。拍手は鳴り止まない。一度舞台袖に下がり、鳴り続ける拍手の中、再び舞台に戻る松永と平泉。
 こんな賞賛を集めたのは子供の頃のコンクール優勝の時以来だろうか。
 いや、それ以上だ。

 そして、再び礼をして、直ると松永教授がマイクを取る。
 会場は静まり返る。

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「本日はお忙しい中コンサートにお集まりいただき誠にありがとうございます。今ので最後の演目が終わりましたが、ここでもう一曲だけ披露したいと思います。そして、実はこのために今日は海外からゲストを招待しております。ご紹介します。嵯峨野飛鳥さんです」
 松永の紹介が終わると嵯峨野飛鳥が真っ赤なドレスを来て堂々と舞台袖から歩いてくる。
 観客から割れんばかりの拍手。数日前に今をときめくピアニスト金山彰と共演したばかり。そこでの圧倒的なパフォーマンスが話題を呼んでいた。

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「嘘だろ…」
 平泉は驚愕し、そして自分の胸の鼓動が波打つ音を聴いた。拍手の音が遠くに感じられ、そこに歩いてくる嵯峨野が現実のものとは思えなかった。
 まさか飛鳥がゲストだなんて。先生はどこまで考えてくれているんだ。平泉は松永を見た。松永は頷く。

 舞台の真ん中に立つと嵯峨野は観客に礼をする。
 松永からマイクを受け取り、話し出す。
「松永先生、本日はお招き頂きありがとうございます。先ほどのガーシュウィン、それまでの全ての曲、とっても素晴らしかったです。このような場所に立たせていただけて光栄です」
 観客に対して再び礼をする嵯峨野。そして大きな拍手が響く。しばらくその余韻を聞いてから再び話し出す。
「本日は一曲だけ、サプライズで弾いて欲しいと頼まれていました。ここにいる平泉さんとは子供の頃から、もう20年ほど前からの知り合いです。でも、彼は昔にもう音楽を辞めてしまったと思ってました。なので、私は今日のガーシュウィンを聴いて、今震えが止まりません。今日はこれから二人で一曲弾かせていただければと思っています。20年分の思いを込めて」
 嵯峨野は礼をし、平泉もそれに習う。

 まさかあの曲なのか…

 嵯峨野は平泉を見た。
「あの時一緒に演奏できなかった曲をやっていただけるかしら」
 嵯峨野は小さな声で平泉に告げた。
 それは、カッチーニのアベ・マリア。あの時金山に取られてしまった伴奏。平泉は小さく頷いた。

 平泉は椅子に座り、居住まいを正す。調弦のための音を一度出し、嵯峨野は弦を整える。
 二人はお互いを見つめ合う。

 その時、平泉の心は妙に静まり返った。そして慈愛に満ちた眼で嵯峨野を見つめ返した。
 ああ、自分はこの時を待っていたんだと感じた。

 最初の伴奏音を静かにゆっくりと弾き始める平泉。情感を込める。
 その音で二人は繋がっていく。ゆったりとした音に嵯峨野のヴァイオリンのメロディーが乗っていく。少し遅めのテンポだが、その方が平泉の本来持つ優しいタッチが生きる。

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 あの日コンクールのガラコンサートの前に練習室で二人だけで練習した曲。なんと甘い時間だったのだろう。こんなにゆったり音を出せる人はやはり彼以外にはいなかったと嵯峨野は感じる。
 嵯峨野のヴァイオリンの旋律はどちらかと言うと強く激しいタイプだが、平泉とこれを弾く時は全てを伴奏にゆだね、ひたすら優美にロマンティックにメロディを奏でることができる。何も主張しなくていい、ただ心のおもむくままに。あの時のように。
 嵯峨野は平泉を見る。同じタイミングで平泉は嵯峨野を見つめて頷く。殊更伴奏音が大きくなった。ここで羽ばたけということね、雪成。
 嵯峨野はあでやかに、そしてつややかにメロディーを奏でる。会場がカッチーニのメロディーに飲まれていく。
 あの時以上の恍惚感が押し寄せる。眼を瞑る嵯峨野。音に、雪成の音に委ねる。

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 最後の一音を弾き切った時、平泉の目から涙が溢れていた。
 嵯峨野もそれを見て涙を流した。

 一拍置いてさざなみのように拍手が湧き上がり、二人が握手をしてお辞儀をすると、大きな拍手が会場を包んだ。とても暖かい拍手だった。松永はまるで孫を見るような気持ちで二人を見つめていた。
 松永の合図でオーケストラも立ち上がり、全員で礼をする。
 会場から大きな、とても大きな拍手が湧き上がる。
 二人はもう一度会場を見上げて、深く深く礼をした。

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 舞台袖に引き上げると、嵯峨野は平泉を抱きしめた。平泉も泣きながら嵯峨野を強く抱きしめた。
「会いたかった」
「ええ、私もよ」
 二人は周囲の目も忘れて抱きしめ合っていた。
どのぐらいそうしていただろうか。埋め合わせられない年月が過ぎてしまったことを感じながら。
 
 松永が咳払いをしたことで、二人は離れた。
 平泉は眼から流れる涙を袖で拭き、今度は松永を抱きしめる。松永も涙を流しながらそれに答える。団員たちもそれぞれに抱きしめあったり握手したりしていた。

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 松永は今日自分の役割を終えたような気がした。この先、彼らがどう進もうと自由だ。しかし、一つの道は作った感覚があった。あとは君たち次第だと。

「雪成、あとは自由にしなさい」
「はい、ありがとうございます。でも、これで吹っ切れたような気がしています。小さなライブハウスでジャズの演奏などできたらいいなと思ってます」
「あら、駄目よ。あなたはこれからじゃない」
 嵯峨野が横から口を出す。
「もういい歳だから」
 平泉はスッキリした顔をしている。
「私はやっぱりあなたの優しい雄大なピアノの音が好き。また聴きたいし、たくさんの人に聴かせたい」
「うん。じゃあ飛鳥のリサイタルの伴奏でもやらせてもらおうかな」
「ええ、いいわよ。日本に拠点を移したらお願いするわ」
「金山さんじゃなくていいの?」
「あら、私は前からあなたの音が好きだったのよ。本当はあの時も」
「そうか」
 平泉の目からまた涙が溢れ出てきた。
 それを見て、松永は、これで終わりではなく、これからが始まり、まだまだ楽はさせてもらえないかもしれないと思った。

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「松永先生」
「ああ、山形くん。来てくれていたのか」
 芸術大学の学長の山形が松永の楽屋を訪れていた。
「これで終わりにするにはもったいないオケですね」
「ああ。それぞれなかなかその腕を披露する機会がない生徒を集めたんだ。だが、腕は確かだ」
「ええ。松永先生が選ばれたんですから。このオーケストラにふさわしい指揮者を探します。松永先生にも振っていただきたいですが、さすがに常任という訳にはいかないでしょうから。私が探しましょう」
「ああ、よろしく頼む」
「それと…」
「ん?」
「あのピアニスト」
「平泉くんか?」
「ええ」
「どうだった?」
「どうだったも何も、先生がずっと教えられていたんですね」
「文句のつけようはありません。ただ、もう少し知識があった方が更に伸びるでしょうな」
「やっていけるかね?音楽の世界で」
「それはなんとも言えませんが…」
「そうだろうな」
「でも、その価値は充分あります」
「ほう。では?」
「折を見て何かのオファーをさせてもらいましょう」
「ああ、そちらもよろしく頼む。あれはあれで悩み深き青年なのだ」
「はい」
 山形は柔らかく頷いて控室を出て行った。
 松永はそれを見送って椅子に深く腰掛け、眼を瞑った。今日はこれで満足だ。良くやった雪成。

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 犬飼一郎は、嵯峨野に誘われたコンサートでまたしても感動していた。平泉雪成のガーシュウィンもとても良かったが、最後のカッチーニのアベ・マリア。泣きそうなほど美しく心に響いてきた。嵯峨野と平泉の共演は二人の間に入っていくことがあまりに難しいほどの一体感だった。悔しいほどに。
 しかし、その演奏は本当に素晴らしかった。優美でロマンティックで、何十年ぶりの再会が詰まったようななんとも言えない感情がこもっていた。
 俺だって同じだ。平泉と嵯峨野のように、嵯峨野とは何十年ぶりの再開だったんだ。
 しかし、そこには入っていけない溝があるように感じた。なぜ彼女は俺にこれを見せたのだろう。いや、そこまで考えていないだろう。
 いずれにしろ自分はもう幕引きするしかないような気がした。

 犬飼は会場を後にすると、電車で下北沢に向かった。
 アベ・マリアが頭に鳴り響いている。あまり食べたくない気分だったが、食べずにはいられない気分でもあった。

 下北沢に着くと、北に少し歩いたところにスープカレー屋が二軒入った小さなビルがある。そこに、Elvisというスープカレーの店があった。

 先客はいなかった。なんだ誰もいないのか。なんとなく寂しい気持ちになったがそのまま店に入った。
 種類がいくつかあったが、スーパースペシャルカレーと書かれた一番高いメニューにした。



 豚バラ軟骨、煮込みチキン、ラムしゃぶ、角煮、ベーコンを選ぶ。さらに野菜も追加した。
 しかし、ご飯はなしだな。
 
 注文して暫く待つ。
 しかし、頭にはあの二人の演奏の情景が浮かぶ。あんなに美しい演奏を二人でするというのはどんは気持ちなのだろう。本当に悔しい。自分だって同じ気持ちだ。しかし、やはり無理なのだろう。音楽をやっておけば…いやいやと首を振る。
 もはやそういう段階ではない。

「お待たせしました」
 カレーが運ばれてきた。



 これはすごいボリュームだ。肉肉しい。

 俺はいいのだ、これで。一瞬夢を見れたじゃないか。



 濃い味のスープ。黒。スパイスが効いてうまい。



 ラムしゃぶ。柔らかくてスープとともに食べると旨みが口の中に広がる。くせもない。



 鉄板の角煮。ほろほろと溶ろける柔らかさ。口に含みじっくりと噛む。肉汁が溢れ出しカレーと合間って素晴らしくうまい。



 おつぎは豚ばら軟骨。いわゆるソーキ肉。この柔らかい骨が、噛むと口の中でぐにゃりと割れて甘い肉汁が溢れる。これがなんとも言えずうまい。



 そして、煮込みチキン。これはスープカレーの定番だ。定番だから尚更うまい。



 最後にベーコン。犬飼は大のベーコン好き。カレーの味と混ざり、その旨味が増す。

 そのほかの野菜も多種類入っていて、スプーンを止めることができない。

「こりゃたまらないな」
 犬飼は思わず呟いた。しかし、たまらないというのは旨さだけではなかった。
 少し目が潤んでくる。これは汗か。いや、違う。わかっている。
 一時とは言え嵯峨野を好きになっていた。思いを伝えたわけではないが、もう伝える機会もないだろう。この年で人を好きになることなどないと思っていたが、それがこのような苦い結末を迎えてしまうとは。
 スープカレーをまた一口啜る。
「堪らないな…」
 犬飼は独りごちた。誰もいない店内に空虚に音が響いた。

「ご馳走さまでした」
「ありがとうございました」
 代金を払い再び街に出た。下北沢は学生の街だ。楽しそうな学生が沢山いる。あの頃の俺は…いや、これ以上センチメンタルになるのはやめておこう。
 なんだかやっていられない。
 犬飼は再び電車に乗り、自宅ではなく、なじみの広尾のバーに向かった。

 空にはぼんやりとした月が出ていた。この月でも味方でいてほしい。そんなことを考えた。


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スープカレー&ダイニング エルビス
050-5530-5594
東京都世田谷区北沢2-29-16 マガザン下北沢 2F
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A131802/13279237/