紀尾井でのコンサートから数日、嵯峨野飛鳥は実家で穏やかな日々を送っていた。

 ニューヨークから日本に一時帰国して10日。姉の容態は今のところ落ち着いている。母も自分が帰ってきたことでいくらか気持ちが和らいだのか、笑顔が増えている。

「飛鳥、どう、日本は?」

「え? どういう意味?」

 母は言いにくそうにしている。わかっている。戻ってきて欲しいのだ。

「うん、良い感じだよ。今夜こっちの事務所の人と会うことになってる。拠点を移すかはまだわからないけど、日本での仕事がたくさんくるなら、なくもないかな」

「そう」

 母は期待が外れて幾分哀しそうな表情をする。仕方ないことだとわかってもいる。でも、今までもそうしてきた。

 あれから、犬飼くんが一度誘ってくれたけど、断ってしまった。新たな恋を始める気には今はならない。

 ピアニストの金山くんとはまたコンサートの計画を立てている。彼も忙しそうだ。

 私は、日本で何が出来るだろうか。ニューヨークではクラシック以外にもJAZZやポップスのライブにも出演していた。その方が幅が広がる。やはり、クラシックだけではどの国も難しい。


「ねぇ、ちょっと出掛けてくるね」

「え? うん。遅くなる?」

「ううん、一度帰ってくるよ」

「そう…」

 いつまで立っても母は母だ。まるで私が中学生のような気分なのだろう。

 中学生と言えば、平泉くんはどうしているだろうか。

 昔好きだったピアニスト。音楽はやっていないだろう人。過去を美化するのは良くないと思っても、なかなかやめられない。

 もう日本に飽きているのかしら。

 嵯峨野は家を出てふらりと半蔵門線に乗る。どこにいこうかと考えている間にどんどん駅が通り過ぎていく。

 大手町は何もないわね。じゃここで降りよっと。ということで神保町で降りた。

 検索エンジンで、カフェを探す。こんなことするの高校生以来かしら…。たくさんのカフェが出てくる。さすが東京。やはり素敵な街ね。

 あ、ここにしよ。

 水道橋にだいぶ近くなった少し裏道にあるカフェ、DIXANS ディゾン。おしゃれな外観。嵯峨野は硝子窓のついた品の良い扉を押した。

 店内は薄暗い。入った瞬間にベーカリーの焼かれた良い匂いが鼻腔をくすぐる。

 気分がいい。



 カウンターにはケーキが並べてある。でもここのおすすめはバタートーストのよう。

 嵯峨野はバタートーストとアイスカフェラテを注文した。

 しばらくお待ちくださいと言われて席に座る。



 光の抜ける素敵な席。大きな天板のテーブルが心地よい。ドライフラワーも素敵だ。すこしニューヨークのブルックリンにある店に似ていた。

 検索エンジンで、何気なく平泉と打ってみる。


「元芸術大学教授松永由紀監督コンサート。指揮・松永由紀、プログラム・ラヴェルより亡き王女のためのパヴァーヌ、夜のガスパール、鏡(三木谷卓)、ベートーヴェンよりピアノソナタ第32番(唐島佐江)、ガーシュウィンよりピアノ協奏曲ラプソディ・イン・ブルー(指揮・松永由紀、ピアノ・平泉雪成)他、JAZZメドレー」


「え…」

 声が漏れていた。松永由紀先生と言えば音楽会では誰でも知っている名指導者。ピアノを習う人は誰もがその名を一度は聞いたことのある有名人。でも、弟子はほとんどとらない気まぐれな人との噂。しかも、音楽大学を卒業していない人なんて弟子にするはずない。この平泉雪成とは、あの平泉雪成だろうか…。少しの焦りとワクワクが心をざわめき立てる。


「お待たせしました」

 沈黙を破るようにモーニングセットが運ばれてくる。



「素敵!」

 店員の動きに驚いたが、トーストの美しさに心が奪われる。



 バターがたっぷり塗ってあり、少しざらついたシュガーとハニーの良い香り。テンションがあがる。

 検索の事実はひとまず置いておいて、嵯峨野はトーストに齧り付いた。

 熱々のトーストにジュワっと広がるバターとハニーの味。少し舌にざらつくシュガー。これは満点の一位ね。

 自然に笑顔が溢れてしまう。早起きした甲斐があったというもの。店内を見回すと、女性客が多い。

 手もべとべとするし…と自分に言い訳しながら、パクパクと齧り付くのをやめられない嵯峨野。


「至福だわ」

 嵯峨野は独りごちた。


 あっという間に食べてしまう。はしたない…ま、いっか一人だしね。

 気を取り直して光溢れる大きな窓を見ながらゆっくりとカフェラテを飲む。

 本当に素敵。東京に越してこようかしら…あら、私もしかして、平泉くんを意識してるのかしら。

 まぁいいか。

 これが本当に平泉くんならその演奏も聴いてみたいし。でも、松永由紀先生に聞いてみようかしら、本当に平泉くんなのか。ツテがないわけではないし。


 コーヒーを飲み切ると嵯峨野は店を出てそのまま水道橋駅に向かった。この後は、上野で友人と会う約束をしている。そこでちょっと聞いてみようかしら。


 駅に向かって歩いているとひらひらと目の前を何かが横切った。

 上を向くと、幾分緑の葉が生えた桜の木からわずかに残った花びらが散っている。

 まだ春が残っている。

 私にも。そんな気持ちになった。


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ディゾン 水道橋
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