「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「犬飼さん、ご予約ありがとうございます」
行きつけのバー山神に来た犬飼。
「もう一人来るかもしれない。でも、来ないかもしれない」
幾分声が小さくなる。何を弱気な。
「はい、かしこまりました。カウンターのお席をどうぞ」
犬飼はほぼ定位置のカウンター席に座る。いい歳こいてどきどきしている自分に恥ずかしくなる。しかし、それでもいい。今はそのどきどきに浸っていたい。既に幸せなのだ。
「生ビール…いや、ラムコークちょうだい」
「かしこまりました。何かいいことあったんですか?」
「え、なんで?」
まさか、他人にすぐわかるほどの表情なのか。嘘だろ。
「にやにやしてますよさっきから」
「え、まじ? やばい」
犬飼は自分の頬を手で隠す。
来ないかもしれない。でも、もしかしたら本当に来るかもしれない。あんな人が。ありえないことだ。犬飼は、逡巡した結果やはりにやにやしてしまうのだった。しかし、マスターにバレる程とは。
「羨ましいですね。そんなにいいことが?」
マスターは聞きながらステアリングする。大きな氷がグラスに当たりカラカラと乾いたいい音がする。
「あ、いや、ないよ。まだない。今は少なくとも」
あとで恥ずかしくないように微妙に内容を隠す犬飼。
「そうか。だから二名様なのですね」
秒殺で見透かされる。
「なんでもお見通しだな」
「はい、どうぞ」
笑いながらマスターは犬飼にラムコークを渡す。
犬飼はそれを受け取り、まずはぐいっと飲む。
「プハッ、うま」
「まるでビールの飲み方ですね」
「はは、違いない」
「山神さーん」
別の客からマスターが呼ばれる。
「失礼します。ごゆっくり」
うやうやしくお辞儀をして犬飼の元を離れる。
犬飼はそれを見送りながら黒光りするグラスの中にある大きな氷を見つめる。再びぐいっとラムコークを飲む。落ち着け。落ち着け。
「横いいかしら?」
美しい声が聞こえるとともに良い香りが鼻を掠める。心臓が跳ね上がる。落ち着け。落ち着け。 犬飼は声の主をゆっくりと、さりげなく見る。
そこには、まるで女神のような嵯峨野飛鳥が立っていた。
「あ。こんばんは。本当に来てくれたんだ」
「あら、迷惑だった?」
「まさか。その反対だよ」
ダメだ、つまらないセリフしか出てこない。
「どうぞ」
犬飼は椅子を引いて、席に案内するとともに飛鳥のコートを受け取りハンガーに掛ける。
「いらっしゃいませ、何になさいますか?」
絶妙のタイミングでマスターが戻ってくる。
「何飲んでるの?」
「ラムコーク」
「じゃ私もそれ」
「かしこまりました」
飛鳥が席に座る。また良い香りがする。
何を話すつもりだったんだっけ?
全て真っ白になる。おかしいな。いろいろあったはずなのに頭から飛んでしまった。
「どうだった?」
しまった、そうだ、今夜はコンサートだったんじゃないか、くそ。
「もちろん、とっても良かったよ。ほんとに良かった。鳥肌が立った」
「あら、ありがとう」
なんて陳腐な感想なんだ。ありえないだろう…しかし、言葉が浮かんで来ない。落ち着け。落ち着け。
「お待たせしました」
マスターが飛鳥のラムコークを持ってくる。
「じゃ、お疲れ様。乾杯」
「乾杯」
二人は乾杯する。犬飼は一気に残りを飲んでしまった。飛鳥もぐいっと飲む。
「おいし!」
飛鳥は良い表情になる。良かった。
「ね、うまい」
「あら、お代わりする?」
飛鳥は目ざとく犬飼のグラスが少なくなっているのに気づく。
「あ、ああ。マスター、お代わり大至急」
「わかりました、大至急」
「あはははは、面白いわね」
「ははは」
そうだ、笑い飛ばせ。犬飼は殊更笑った。なんて様だ。
「久しぶりにクラシックを聴きに行ったんだけど、彼も凄かったね。予想以上に感動したよ」
「そうね。素晴らしかったわ。私たちと同世代よ」
「そうなのか…」
まじか。そりゃまぁそうだ。彼は天才だもんな。今目の前にいる人も。当たり前のことを思った。
「どうしたの、まじまじと」
「え、あ、いや、はは」
情けない。単なる同級生だと思え!犬飼。この前は上手く話せたじゃないか。
「なんかさ、この前は単なる同級生だと思ったんだけど、今日の演奏聴いたら、なんか、逆に遠いというか、俺なんかと話していいのかなと思ったりして、でも誘っちゃったんだけどね」
「何言ってんのよ。単なる同級生だからいいんじゃない。そうじゃなきゃ来ないわよ」
危ない、これは一度雰囲気を変えないとならない。犬飼は酒の力を借りることにした。いままでもこうして潜り抜けてきた。
「はは、そうか。ごめん変なこと言って。マスター!」
「はい」
「テキーラ、ショットで。二個!」
「え、テキーラ?」
「同級生なんだから良いだろ。テキーラ飲もう!」
もういい、やぶれかぶれだ。
「わたし、強いよ」
「え?」
不敵に笑う飛鳥。それもまた魅惑的だった。しかし、悪くない反応だ。こっから巻き返すぞ。犬飼は戦闘モードに切り替えた。
「はい、テキーラどうぞ。それとラムコークのお代わりも置いておきますね。濃い目です」
言いながらマスターは笑う。
「だって。頑張ってね犬飼くん」
「馬鹿にされては困る。俺だって長い間ニッポンのサラリーメンをやってきたんだ」
「じゃ、乾杯」
飛鳥とテキーラのグラスをぶつける。そして二人とも一気に煽る。
「うーん、うまいね」
「おいしいわ。お代わり?」
「え? の、望むところよ」
飛鳥、本当に強そうだ。
「マスターお代わり二ついただける?」
飛鳥がマスターに注文する。先手を取られた。
「はい、かしこまりました」
マスターが笑って犬飼を見る。犬飼はそれを睨みつける。
「はい、どうぞ。ビーフジャーキーも置いときます」
「ありがとう」
「じゃ乾杯しましょ、一郎」
「おう!」
二人はまだグラスを合わせる。ガツンという音がした。飛鳥はまた一気に飲む。犬飼もそれに遅れることなくついていく。
「おいし! マスター、次なんだけど、赤ワインボトルある?」
「ありますよ」
「シラーあれば」
「はい」
「勿論付き合うわよね一郎?」
挑戦的な表情で一郎を見つめる飛鳥。犬飼はどきどきしてしまう。
「当たり前だろう、見くびるなよ!」
なんて展開だ。こりゃまずいな。テキーラが地味に効いてきている。
「それで、一郎は今何に忙しいのかしら?」
「うん? そうだな。今は会社の周年プロジェクトの一つを任されていて、そのイベントとプロモーション戦略の策定かな」
犬飼は自分の今のプロジェクトを話す。そこで閃く。社内のパーティーでヴァイオリン弾いて貰うってのはありだ。
「ねぇ、社内のプライベートなパーティーでヴァイオリン弾いてって言ったら怒られる?」
恐る恐る飛鳥の顔を伺う。
むっとした顔をする飛鳥。まずい、プロに失礼なことを聞いた…。
「あ、いや、ちょっ…」
「あるわよ。弾くよ全然。勿論有料だけど」
不機嫌な表情から一転の笑顔。なんだこのギャップは。
「ああ、勿論勿論。そっか、もしかしたらお願いする機会があるかも」
「一郎の頼みじゃ断れないか。スケジュール次第だけどね」
「うん。その時にはまた相談するよ」
飛鳥の気分は悪くなさそうだ。
「はい、お待たせしました。赤ワインです」
「やった。嬉しい!」
本当にお酒が好きそうな反応。こりゃ本当にまずいぞ。
マスターが二つのワイングラスにお酒を注ぐ。
「乾杯」
二人はカツーンとグラスを合わせる。良い音が店内に響く。
「うーん、おいしいー…果実味が強いわ」
「南オーストラリアのシラーです」
「オーストラリアのワインも好きなの私」
「ほんと?、実は俺も好きなんだ。飲みやすいし」
「無理して合わせてない?」
「まさか。俺はこう見えても結構オーストラリアに造詣が深いんだからね」
犬飼はオーストラリアにある子会社に度々出張していたので、その時に良く接待したのだが、かなりの頻度でオーストラリアワインを注文した。南国のワインらしく、太陽をたくさん浴びているため、果実味がかなり強い。しかし、それがフレッシュで飲みやすく、接待先でもとても評判が良かった。それがここで生きるとは思ってはいなかった。
「あらそうでしたか、それは失礼しました」
「よし、もう一杯いこう」
「じゃ、私も」
飛鳥はぐいっとワインの飲んだ。犬飼も自分のグラスを空にして、ワインを注いだ。やはりお酒は良い緩衝材になる。うまく回ってきた。
「いい飲みっぷりね」
「美人の前では特にね」
軽口もたたけるようになってきた。
「お上手ですわ」
犬飼はホッとしていた。しかし、結構回っている。
♦︎
思いの外楽しい。犬飼は飛鳥が思う以上に成長していると見える。もちろんクラシック界の住人とは全く異なるが、むしろ安心感がある。そして、やっぱり優しい。今夜は寄りかかってしまいたい。テキーラとワインが自分の心を確実にほぐしたようだ。
まぁでも今日は初めてに近いからね。この辺にしておこうかしら。一郎は、私にメロメロのようだし。
悪いとは思いつつも、飛鳥は一郎に甘えてしまう。
♦︎
いい感じだ。今夜どうなるのだろう。いや、俺は何を考えて。でも、こんなチャンスは滅多にないし。飛鳥も楽しんでくれている様子。さて、この後はどうしようか。
「さて、じゃあこのボトルが空いたら行こうかな」
「え!」
これこらじゃないか。エンジンがかかってきたところだ。まだ大した話もしていない。いや、しかしここで留めてはダサい。
「そ、そうか、もっも話したいなぁ」
「まだボトル無くなってないから安心して。私も話したいし」
「なんだ焦らすなよ。くそ、してやられた」
♦︎
わかりやすいわ。ごめんね一郎。あなた次第なのよここは。まぁでも、今夜はこんなところかしら。飛鳥は心の中で謝る。
♦︎
「でも、本当に感動したんだ今夜は。また聴きたい。CDとか、配信とかしてる?」
これは本音だ。俺は昔からクラシック、特に弦楽器の音が好きだった。今回も知り合いがこんなにもすごいアーティストだとは思はなかった。こんなチャンスは人生でなかなかない。
「あ、何曲かはあるわよ。聴いてみて」
「うん。ねぇ、日本にはいつまで?」
「そうね、まだ決めてないのだけど…」
「そうか」
「でも、もしかしたら、母が高齢でね。拠点を日本に移すかもしれない」
「そうなんだ!まじ!」
これは運が巡ってきたのか。俺にも漸く。犬飼はあらぬ将来を一瞬意識した。
いかんいかん、先走るな。こういうところが男の浅はかなところだ。ポーカーフェイスを装う。
「もし、こっちに拠点が移ったらまた飲みに行けるね」
「そうね、行けるわ」
「また、会いたいな」
いかん、行きたいと言うつもりが会いたいと言ってしまった。
「ええ、私も。楽しかったよ」
まじか!私も?いや、これは社交辞令と言うか、深い意味ではない、はず。
しかし、嬉しい。今夜はここまでだな。
もう充分だよ明智くん。
犬飼はワインをぐいっと飲み干した。飛鳥もそれに合わせて残っていたグラスのワインを飲み干す。
「美味しかった。ちょっとお手洗いに行ってくるわね」
「ああ」
ベストなタイミング。犬飼はマスターにお会計を頼む。
「いやー、素敵な方でしたね。いい感じでしたよ犬飼さん」
マスターが褒める。
「そ、そう? ほんとに?」
「本当です」
「あの人、有名なヴァイオリニスとなんだ」
「そうでしたか。なんか雰囲気ありました。犬飼さんも隅におけませんね」
「いや、そんなんじゃないよ」
そう言いながらまたニヤけてしまう。そうなったらどれほどいいだろう。いや、それは見果てぬ夢というやつだ。
自分はサラリーマンで、相手はアーティスト。所詮我々のレーンは交わらない。
しかし…
「お待たせ」
飛鳥が戻って来た。
「ああ、ちょうどいいよ」
飛鳥が犬飼に向き直る。
「今日はありがとう、なんかホッとしたというか、楽しかったわ」
「こちらこそ、貴重な演奏後の時間を俺に割いてくれるなんて。本当に幸せだった」
「ご馳走様でいいのかしら?」
「もちろん」
「ありがとう」
二人は席を立ち、店を後にした。
店の外でタクシーを捕まえる。
「じゃあ、また」
犬飼は飛鳥に向かって言った。
「ええ」
飛鳥はそれを受けて、止まったタクシーに乗ろうとする。
「あ、あの、会えて嬉しかった」
犬飼は、いてもたってもいられず、もう一度それを伝えた。えい、おれは何もできず…。
「ええ」
飛鳥はタクシーに入ろうとしたのをやめて、犬飼に向き直る。そして、ハグをする。
犬飼は驚きながらも飛鳥を抱き止める。幾分強く抱きしめてしまう。30秒ぐらいだろうか、永遠にこの時間が続けばいいのにと犬飼は思った。
「じゃあ、またね」
飛鳥はタクシーに乗った。
犬飼はそれを見えなくなるまで見送る。タクシーがいなくなっても、暫くその方向を見ている犬飼。
良い香りがまだ鼻に残る。そして、彼女の体温も。
とんでもなく大きな魚を逃してしまったのではないかと激しく後悔した。
暫くして、タクシーを止める犬飼。乗り込んだタクシーが走り出す。車窓を流れていく景色が、昔若い頃に夢見たネオンのようだと、あのキラキラしていた頃に見たネオンのようだと感じた。
♦︎
「いてててててて!」
犬飼は行きつけのマッサージ屋に来ている。
「いたたた、あーーーー! 痛い!」
「こんな甲斐性のないやつは痛くされて当然すよ!」
マッサージ師がグイグイと犬飼の体を押す。
「仕方ないだろ。嫌われたくないもん」
「行かなかったから嫌われるんすよ」
「いたたたたたたーー!痛い!」
犬飼は海老反りになる。
「血を流す価値もない。流したってどうせ何もしないんだから」
「でもハグはしたよ」
犬飼は飛鳥の体温を思い出す。うっとりしてしまう。
「いたたたたたたた!」
マッサージ師はまたふくらはぎを強く押す。
「死ぬー、死ぬー!」
「死んじゃえばいいんですよ!」
「いててててー!」
翌日の昼下がりは平和に過ぎていく。
♦︎
さて、と。この後はアポが一軒。この辺りのビルのはずだが。
あったあった。少し早いな。
犬飼はデザイナーの事務所を訪れるため市ヶ谷に来ていた。
漸く開花したとおもったが、もう桜の枝からは緑の葉っぱが見えている。今年はあまり桜が見れなかったなと思った。
ラーメン屋か…事務所の手前にラーメン屋が一軒ある。ネットで調べてみると評判は悪くない。
イタリアンのラーメンか。コンセプトラーメン…まぁいいか、行ってみよう。
「いらっしゃいませ」
店に入って直後に券売機があり、食券を買う。フロマージュ塩がうまそうだったが、敢えて全部のせ塩ラーメンにした。やれやれ、昨日のことが気を大きくさせているようだ。
空いているカウンターに座ると、瓶に入った水が出てくる。
「あくまでイタリアン、というわけか」
犬飼は独りごちた。
客も女性ばかり。あまり期待できないかもな。そう思いながら瓶に入った水を飲んでいるとラーメンが着弾した。
「これは、うまそうなビジュアルだ」
犬飼は提供された丼を見て唸った。これは綺麗だ。
「ただし、綺麗なだけでまずいラーメンもあるが…」
そう言いながらレンゲでスープを掬った。
このスープ。透明だが、油はかなりある。旨みはありそうだ。ズズッとスープを啜る犬飼。
やはり旨いか。イタリアンだからと構えていたが、さすがラーメン。コクもある。
今回ここの推しのチーズ、つまりフロマージュラーメンにせず、このビジュアルに惹かれて全部のせラーメンにしてしまったが、このチャーシューのビジュアルは期待させる。
犬飼はチャーシューを掴んで口に入れようとしたが、すんでのところでほろほろと崩れ落ちた。
「これは旨いやつのほろほろだな」
犬飼は再びチャーシューを持って口に入れた。
「やはり。これはうまい。歯応えもあるがほろほろして、塩気も効いて、脂身がジューシーさらに旨みを増す。全部のせ正解だったな」
犬飼はチャーシューを食べ、そして細竹も食べた。
最後は麺だ。北海道の小麦を使っているそうたが…
ズルズルッと麺を飲み込む。
「ほう」
これまたつるつる系の細麺で食べやすい。塩スープにも合う。主張も強くない。よりスープの旨みが伝わってくる。これは合格だ。
犬飼はズルズルッと麺を啜り、スープを啜り、チャーシューを頬張った。
うまかったな。これは掘り出しもんだ。次はフロマージュも食べてみるか。再訪の余地がありそうだった。
店を出る犬飼。さて、ちょうど良い時間だ。クライアントのビルに向かった。
途中、また昨日の飛鳥を思い出して、ニヤニヤしてしまう。
すれ違う人が犬飼を不思議そうに見る。
なんだ、中年のおじさんが笑っちゃ悪いのか?ああ?睨め付けるように周囲を威嚇し、犬飼は目当てのビルに入って行った。
***
黄金の塩らぁ麺 ドゥエイタリアン 市ヶ谷本店
03-6910-0770
東京都千代田区九段南4-7-17
https://tabelog.com/tokyo/A1309/
A130904/13093887/