嵯峨野飛鳥は、金山彰から入ったメールを見た。
彼がロシアに音楽留学してからもう10年も経つが、それ以来のことだった。
嵯峨野自体既にニューヨークに10年以上前から住んでおり、彼はおろかその当時の友人たちとも特段親交があるわけではなかった。
ただ、姉が病気で入院することになり、一度戻ろうと思っていたところではあった。
ちょうどそれに呼応するようにして、まるで思い出したように連絡が来たのだ。
懐かしいと思いながら開くと、彼がチャイコフスキーピアノコンクールで準優勝したこと、それで凱旋コンサートを日本でやること。その時もし良かったらゲストで共演してくれないかという内容だった。
10数年も会っていないのに、どうして急にと思ったが、彼の方では嵯峨野の活躍をウォッチしていたようだった。
彼とは、高校生の時からの付き合いだ。同じようなコンクールに楽器は異なれど出場することが多かった。日本のコンクールで、入賞者によるガラコンサートが行われたが、その時に伴奏をしてもらったのが、彼との親交が深まるきっかけだった。
確かその頃、金山と同じようにコンクールで顔を会わす出場者の中に、歳下ではあったが、才能溢れる男の子がいた。嵯峨野はその度に彼の音が気になっていた。柔らかで、まるで全てを包み込むように雄大で、なのに繊細な優しさを持った音を奏でる力があった。嵯峨野はその伴奏の上で思う存分自分の自由な音を奏でたいと思っていた。
彼の音となら、自分の力強さに足りない優美で艶めかしい音が奏でられそうだと感じていたのだ。
彼も何度か他のコンクールで優勝しており、その度に少しずつ話すことが増えた。
ちょうど同じコンクールで入賞した時のガラコンサートで、嵯峨野はその子、名前は平泉…平泉雪成と言ったと思うが、その前日、伴奏を頼んだのだ。
嵯峨野は彼を好きになりかけていた。
しかし、そのコンクールの数日前、彼が音楽の道を諦めるということがわかった。
もし、そのデュオの気持ち良さに自分が酔いしれてしまったら…その先のないことは余りにも残酷だと、当時は思った。
今にして見れば、そんなことあるはずもないのだが。当時は自分もとても若く、そう思い込んだ。
そして、当日やはり彼ではなく金山彰に頼み直したのだった。平泉には、「突然なんで?」と、聞かれたが、黙っていると、それ以上は聞いて来なかった。
金山のピアノは平泉とは全く異なる魅力があった。硬質で力強く、聴く者を圧倒する音色を奏でた。
伴奏にはあまり向かないが、嵯峨野も力強い演奏をする方だったので、お互いが緊張感のある演奏を出来る気がした。
その予想は当たり、ガラコンサートでは、二人は大きな拍手喝采を浴びた。
彼からの久しぶりのメールでそんなことを思い出しながら、どうせ一度日本に帰国するのだからと、依頼をオーケーした。
しかし、平泉はどうしているだろかと、やはり思い出してしまう。うまい奏者などいくらでもいるのだが、あの音色を出せる人は今まで彼以外には…いや、もう昔の話だ。美化しているに違いない。嵯峨野はそう思い直した。
帰国までの間、金山と何度もメールをしているうちに、日本に行ったらちょっと頼み事があると言われた。大したことではないということだったので、日本に着いて彼に会ったらそれを聞こうと思っていた。
その後は自分の演奏活動に没頭し、しばし日本帰国の事は頭から離れていった。
そうこうしているうちに、姉の容態がかなり悪いという知らせが母から入った。嵯峨野は帰国の予定を少し早めて帰ることにした。
帰国後、姉を見舞って母といろいろ雑事を済ませたが、やはり母が思いのほか衰えていて、なんだか心配になった。拠点を日本に移すことも考えなくてはならないかもしれない。そんなことも考えた。
もしかしたら、今回の金山の舞台は、その丁度良い機会なのかもしれない。人生は何が起こるかわからないものだから。嵯峨野はそう感じていた。
翌週金山に漸く会った。彼は何というか精力に溢れていた。やはり世界的に有名なコンクールに入賞したことが自信になっているのは間違いなかった。
ロシア留学でさらに迫力が増した感じがした。とはいえ、会うのも10数年ぶり、当時から成長しているのは当たり前のように思えた。
勿論自分だってそのつもりだった。
「元気だった?」
嵯峨野と金山は都内の高級ホテルのラウンジカフェにいた。今日は久しぶりに会って打ち合わせをすることになっていた。
「ええ。あなたは?」
「うん、コンクールもそうだけど、ロシア留学は僕にとって本当に大きいものだったよ。コンクールはその最後の証明のような感じかな。これからは日本で活動していきたいと思ってる」
「そう、良かったわ。当時の友人が活躍しているのを見れて」
「嵯峨野も元気そうで良かったよ。今回は急に誘ってごめんね。引き受けてくれてありがとう」
「ええ。私もそろそろ日本で活動してみたかったし」
「そっか、じゃあいずれ拠点も?」
「まだ決めたわけじゃないけどね。あなたとの共演もいい機会になるといいけど」
「そう願うよ。それで、曲は二曲お願いしようと思ってる。あとでメールするね。候補は四曲あるからそこから選んで欲しい」
「ええ、わかったわ」
金山はコーヒーを飲み窓の外を眺める。今日は曇天で今にも降り出しそうな天気だ。
「あ、そういえば、一つお願いがあるって言ってなかった?」
嵯峨野はメールに書いてあったことを思い出した。
「え?、ああ。あれね。たいした話じゃないんだけどさ」
「君の同級生に山王商事に勤めている人いない?」
「同級生っていつの?」
「確か中学だったかな」
「名前は?」
「いや、名前はなんだったかな…」
「でも何で?」
「いや、ロシア大使館の人から、知り合いだったら会わせて欲しいって言われてね。なんて人だっけな、俺はよく知らないんだけど、君と同級生のはずって言うもんでね」
「ふーん。でも私もう中学の同級生なんて誰も連絡取ってないよ」
「そっか。そりゃそうだよね」
「大使館の人たちは本当に向こうで良くしてくれてね、まあ大したことない頼みだから機会があれば聞いてみますって言ったんだ」
「ふーん、そう」
それっきり、その話は終わった。
その後は、二人の近況や、同じ世代で活躍している演奏者の話題を共有しあった。
「あ、思い出した」
急に金山が言った。
「え?」
「さっきの。犬飼だ。犬飼さんって人らしい」
嵯峨野は考える。犬飼…。誰だろう。
「思い出せないな…」
「そっか。いや、また思い出したら教えて」
「ええ。あ、そういえばさ、昔学生の頃、一緒に出たコンクールで、平泉くんっていたの覚えてる?ピアニストの」
今度は嵯峨野が聞いた。
「え、誰だっけ? 今もなんかやってるの?」
「思い出せない?」
「うーん…それが?」
「まだピアノとか、やってるのかしら…」
「聞かないなぁ」
本当に知らなそうだ。やはりあの時辞めてしまったのだろう。淡い期待が消えていく。
「そっか。いや、いいの全然。忘れて」
「ああ。じゃそろそろ行くね」
「ええ。リハーサルの時にまた」
「うん。じゃあ。ここは俺が払っておくね」
金山はそそくさと伝票を取って店を出て行った。
犬飼、誰だったっけ。平泉とはもう会えないのだろう。この曇天のように心も重くなる。
思い出した。
犬飼一郎。
良く一緒にいてくれた子だ。一郎もとても優しい子だった。確か、バレーボールの授業で私の手を庇ってくれたっけ。懐かしいな。平泉くんと一緒で、彼もおおらかでとても優しかった。
私は、きっと優しい人が好きなのだろう。父が早くに亡くなって、それを誰かで補おうとしているのだ。きっと二人とも、もう会うこともないのだろう。なんだか少し寂しい気がした。
その夜、アメリカで友人になった演奏者主催のパーティーが銀座であった。京橋駅を降りて、花束を買って、歩いて会場に向かっていると前にある店から一人のスーツを着たビジネスマンが出てきた。その顔を見て驚いた。
犬飼くんではないか。多分。だいぶ大人になったが、あの優しげな目元は多分犬飼くんだ。
「あら、一郎?」
「え?」
二人の目が合う。ああ、やっぱりそうだ。これは何かの縁だろう。私はそう感じた。
「もしかして、飛鳥?」
「うん」
ほら、やっぱり。
向こうもすぐに思い出した。大人になった一郎は、スーツなんて着て、ちょっとカッコイイ。だいぶ時を経てしまったけれど、まさか会えるなんて。
今回の帰国は私にとって転機になるかもしれない。もしかしたら、平泉くんにも…なんてことまで考えた。
二人はそばにあった喫茶店に入った。近況を語り、でも時間がなくて、金山くんのコンサートに誘った。働き盛りの彼は忙しそうだけれど、もし来てくれたら嬉しい。嵯峨野はそんな希望を持った。
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一曲目。バラード一番。低い低音から入る。音階を上げて暗い中でも心が盛り上がるように始まる。その後一定のリズムでメロディを繰り返す。この重苦しさがその後の展開部とのコントラストを作る。一音一音が力強く、粒の揃った打鍵。哀愁漂うメロディだが金山の演奏は圧倒される何かがあった。
一曲目が終わると場内は割れんばかりの拍手。既に聴衆の心を掴んだことが伺える。
次は英雄ポロネーズ、そして黒鍵、革命、エオリンハープと連続で弾かれるショパンのエチュード。ここで漸く一息つき、聴衆はさらに喝采する。
「皆様こんばんは。本日はようこそお越し下さいました。金山彰です」
金山はピアノの傍らに立ち自己紹介する。ここで再び拍手。犬飼は既に引き込まれていた。噂以上の腕前だった。
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平泉は圧倒された。これが彼の実力か。20年ほど前の記憶からは全くの別人だった。松永教授から一人立ちしてみようと言われたはいいが、彼のような実力にはもはや一生届かないかもしれない。そんなバラード一番だった。ただ自分とタイプが異なるのも確かだ。戦う前から諦めてどうする。この後のラインナップにも目が離せない。
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「久しぶりの故郷での演奏で、とても楽しみにしていました。この後も本日は心ゆくまでお楽しみください」
再び場内に拍手に包まれ、彼がお辞儀をしてピアノに座ると自然と会場は静まり返った。まるで一音も聴き落とさないようにしようという会場の熱気が伝わるようだった。
次の曲はベートーヴェンの月光ソナタだった。雄大な第一楽章から優美な第二楽章、そしてクライマックスの第三楽章。弾き終わる頃には会場は一体となっていた。
割れんばかりの拍手。素晴らしい演奏だった。
「では、ここで本日のゲストをお呼びします。現在はニューヨークでご活躍されている素晴らしいヴァイオリニスト、嵯峨野飛鳥さんです」
紹介されると、嵯峨野が舞台袖から艶やかなグリーンのドレスを来て登場してくる。やはりとても美しい。この前京橋で会った時とオーラが違う。ああ、舞台に上がる人はやはり違うのだと犬飼は感じた。と同時にその存在が遥か遠くにも感じた。
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平泉雪成は驚きを隠せない。
「まじかよ…勘弁してくれ」
平泉は独りごちた。
会いたい人に会えたという喜びと、最も会いたくない奴のゲストという正反対の思いが交錯した。
金山彰との差は本当にもう埋めようもないのだろうか。しかし、聴かないわけにはいかない。
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拍手が終わると、二人のデュオが始まった。初めの曲は、カバレリア・ルスティカーナ。金山は先程とは打って変わって控え目な伴奏者になる。そこに、とても優美な嵯峨野の旋律が入ってくる。あまりの美しさに会場は圧倒される。しかし、金山も力強さは失われているわけではない。その証拠に、ところどころ二人の旋律が交錯し、ぶつかり合う。その緊張感が会場の観客をグッと演奏に引き寄せる。
曲が、終わっても誰も拍手をしない。音が二人に吸い込まれてしまったかのようだった。
そして、一拍置いて割れんばかりの拍手。たった一曲で会場の心を奪う飛鳥。
そして、次は犬飼の大好きなカッチーニのアヴェ・マリアだった。
金山の伴奏の一音目でわかった。犬飼は目を瞑った。視覚からの情報が遮断され音に集中できるからだ。
飛鳥の歌声が天から降ってくる。まるで太陽光線に乗って天使が降りてくるような情景が浮かぶ。
犬飼は目を開けた。飛鳥を見たいと思った。彼女は弦に目を向けているが、その眼差しは力強く妖艶だ。そこから出る儚げだが優しい旋律。涙が出てくる。演奏を聴いて涙が出る経験など殆どなかったが、あの飛鳥が…と思うと懐かしさが加わって更に涙が落ちた。
曲が終わってももはや拍手ができなかった。
「素晴らしい演奏でしたね。嵯峨野飛鳥さんにもう一度大きな拍手をお願いします」
金山が言うと、場内は大きな、暖かい拍手に包まれた。
おそらくこの二曲でたくさんのファンが出来ただろう。
犬飼もその一人だ。
そして、金山はここからまた一人でベートーヴェンの熱情を弾いた。
しかし、犬飼の頭にはもう何も入って来なかった。
今あるのは、ただ飛鳥と言葉を交わしたいという思いだけだった。
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平泉雪成は演奏が終わって、観客が帰り始めても自分の席から立つことが出来なかった。
圧倒されていた。悔しさももはや吹き飛んだ。もう別の世界にいるのだと痛感した。平泉は、この先自分はどうしたらいいのだろうかと、苦悩するだろうと予想した。
ゆっくりと立ち上がり、会場を後にした。観客はもうわずかだった。
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柳田和弘は、アンコールまでしっかり聴き、ロビーに向かった。事前にCDを買ったファンへの握手会があったからだ。遠目に金山の見える場所に立つ。
暫くして金山が現れた。女性のファンから黄色い声が上がる。
何人ものファンが一言二言交わしながら握手をする。特に怪しい動きはない。横に目をやると犬飼一郎がその様子をチラリと見ている。金山は犬飼を知らないようだ。
ここからの線は辿れないかもしれない。犬飼のそばに貝塚が居た。
ほう、やっぱり知り合いだったか。となると、今日はもう何も起こらなそうだと柳田は判断した。
携帯を一度見て、柳田は会場を後にした。
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伊藤洋平は、久しぶりに感動していた。特に嵯峨野飛鳥と金山彰のデュオ。あまりに美しい旋律だった。カバレリア・ルスティカーナはよく戦地で聴いていた。懐かしく、苦しい思い出もたくさん蘇った。そして、涙が出そうになった。
ロビーに出ると、例の刑事が、鋭い目で遠くから金山のサイン会を見つめていた。相変わらず仕事に精が出るもんだと伊藤は思った。金山は何の容疑なのだろうかと考えるが、ロシア留学がその発端だろう。しかし、自分には関係のないことだと思った。伊藤は会場を後にした。
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「嵯峨野さん、ありがとう。本当に。とっても素晴らしいデュオになった」
「こちらこそ、呼んでくれてありがとう。私も素晴らしい経験ができたわ」
「この後、打ち上げどうかな。良かったら」
「ごめんなさい。今夜はダメなの」
「そうか…また共演してもらえないかな」
「勿論よ。嬉しいわ」
「あ、あの頼み事は忘れて」
「なんだっけ?」
「犬飼さんの件」
「ああ、ちょっと忘れていた」
「そのまま忘れて」
そこで金山に電話がかかってくる。
「ちょっとごめん。じゃまた」
「ええ、また」
金山は慌ただしく控え室を出て行った。鏡を見る嵯峨野。悪くない。そう思った。犬飼くん、忘れていたけど、もう会えないかもな…そう思った。
別に金山くんと行っても良かったよだけれど、なんとなく拒否するものがあった。それは直感的なものだったし、よく分からなかったけど、そうした。
今夜は実家に帰ろう。母に会いに行こう。何となくそう思った。
『今夜は本当に素敵な演奏でした。胸が一杯になった。素人だけど、本当に感動しました。なんか会って話したいと思っちゃった。なんてスターに失礼だね。また』
犬飼からメッセージが来た。少しニヤついている私がいる。いろいろな誘いがあるけど、普通の人から来るのも久しぶりだなと思った。日本だからかもしれない。
「嵯峨野さん、ちょっといい?」
「ええ」
嵯峨野は今度は金山のレコード会社のマネージャーに呼ばれた。
「今日は、本当に良かったよ。感動しました」
「ありがとうございます。私もとても嬉しかったです」
「日本で良かったら演奏活動再開するつもりはないかな?」
「え?」
「君のような実力と容姿なら今後も日本で売れっ子になると感じたんだ。冗談じゃなく。アメリカのマネジメント会社との契約もあるだろうけど、考えてみてもらえないかな?」
「え、ええ」
「おお、良かった。門前払いかと思ったよ」
「いえ、そんな」
「この後予定ある?」
「あ、この後はちょっと」
「そうだよね売れっ子だろうから。では、また連絡させてもらうね」
マネージャーはそう言うとあっさり去っていった。
ホッとしている自分がいる。
衣装を着替えて、嵯峨野はホールを出た。呼んであったタクシーに乗り、実家に向かった。
四ツ谷から、赤坂を遠り、六本木通りを出た。煌めく東京の街。ニューヨークとはまた違うすこし懐かしい感じのする街。
♦︎
『ここで飲んでます。良かったら来ませんか?』
犬飼は打ってからその文章を消した。
「来るわけないよな…」
犬飼は独りごちた。
「はい、お待たせしました」
注文したラーメンが置かれる。
犬飼は西麻布のラーメン屋「赤のれん」に来ていた。気分がいいので、いきつけのバーに行こうとしたが、少し腹が減ったので途中でラーメン屋に寄った。深夜になると良く行くラーメン屋。
博多系のラーメンで食べやすい。キムチをトッピングして、高菜をたっぷりとかける。これで仕上がるのだ。
「毎度やめらんないな」
犬飼は独りごちた。
ズルズルッと勢い良く麺を啜る。細麺が高菜とキムチと豚骨スープを引き連れてやってくる。口の中に複雑な味が広がるが飲み込む時にはそれがうまく溶け合い旨みとなる。やはりうまい。
ズルズルッ、ズルズルッ🎶
ラーメンをすする。煮卵とチャーシューもうまい。しかし…
「会いたいなぁ」
これほど誰かに会いたいと思うのは久しぶりだと犬飼は感じた。以前に連絡先も聞いている。しかし、どうせ今夜は金山彰と飲むんだろう。あんな演奏をする奴が、いや金山以外にもたくさん才能溢れる奴がまわりにいるのだろう。やはり、自分の出る幕なんてないと思う。
再びラーメンを啜る。ラーメンはそんなことに関わらず旨い。せめてもの救いだ。ただ、犬飼は少し悲しくなった。
そういえば、貝塚も今夜はコンサートが終わってからそそくさと帰って行ったなぁ。付き合ってくれれば良いものを。冷たい奴だ。
カッチーニのアヴェ・マリアが蘇る。想像するだけでうっとりしてしまう。もどかしい。
犬飼は携帯を開いた。メッセージアプリを開く。
『今ここで飲んでいるのだけど、もし寄れるなら寄ってみない?』
再び文字を打つ。いや、こんなの送ったって…いや既読無視だろう。それもつらい。でも、いや…。
逡巡が続く。時刻は22時。もう遅い。
「えいままよ!」
犬飼はメッセージを送信した。
やってしまった。これで逆に再会のチャンスも潰してしまった。パンピーのくせに何をやってるんだか…。犬飼はため息をついた。
残りの麺を啜り、スープを飲む。相変わらず旨いラーメンだった。
「お会計」
「はい、ありがとうございましたー」
会計をして暖簾をくぐる。暗い空を見て、また一つため息をつく。
犬飼はタクシーを停め、乗り込む。
「目黒…いや、広尾まで」
帰ろうと思ったが、やはり帰りたくない。
仕方なく一人行きつけのバーに向かうことにした。
何気なく携帯を見る。
『よお、悪いな。別件ができちまって今夜は先に失礼させてもらったよ』
貝塚からだった。
何だよ全く。
ん?
貝塚のメッセージの下にもう一つメッセージがあった。
「まじかよ!」
犬飼はタクシーの中で叫んでいた。
『ちょっとなら顔出せるかも』
嵯峨野からのメッセージだった。
犬飼は携帯でその店に電話し、予約を入れた。
そして、嵯峨野に店のアドレスを入れて送信した。もしかしたら会えるのか…心は既に湧き立っていた。
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