犬飼一郎は、久しぶりに有給休暇を取った。
 今夜は久しぶりにコンサートに行くのだ。しかもクラシック。
 前回は確か三年ほど前だろうか。中国人の有名なピアニストのピアノコンチェルトを聴きに行った。

 休みを取ったのは、万が一仕事の影響で、コンサートに遅れたりしたくなかったからだった。仕事に行くとやはりプライベートが後回しになってしまう。今日は念には念を入れて休みにしたほうが気が楽というものだ。

 久しぶりの平日休みだし、普段行かないところに行きたいと思ったが、急には思い浮かばないものだ。
 普段自分は何を考えて生きているのだろう。仕事人間になどなりたくなかったが、気がつけばそうなっている。

「よし、思い切ってあそこに行ってみよう!」
 犬飼は自分に言い聞かせるように声にだして、出かける準備をした。

 家を出て電車に乗り、四ツ谷駅で降りた。四ツ谷を降りると新宿方面に歩いた。四ツ谷は昔、父親が働いていた街。
 子供の頃、まだ遠出はおろか電車もあまり乗ったことがない頃に、一人で電車に乗って、仕事終わりの父と夜ご飯を食べるという、いわば冒険を行った街。その頃の記憶が蘇る。

 仕事帰り直後の父は、いつも家で会う父とは異なり、少し緊張感の漂うかっこいい大人だった。なんだか父ではないような気がしたが、話しているとやっぱり父だと思い、なんだか嬉しくなった。その時必ず入る洋食屋があって、そこではわがままになんでも食べていいと言われた。
 エビフライにハンバーグ、とんかつ、カニクリームコロッケと、家ではたくさん食べられない揚げ物を気にせず頼み、「母さんには内緒だぞ」と笑う父と二人で秘密を共有することで、なんとも言えない幸福感に満たされたことを思い出した。

 自分は子供もおらず独身。その幸福感を伝えることもない。そして、その父も既に他界し、その記憶を覚えているのは自分だけというのがとても寂しく感じた。

「なんで今頃そんなことを…」
 犬飼は独りごちた。

 犬飼はそんな思い出を回想しながら、しばらく歩いた。四谷三丁目の交差点に出る手前で大通りを渡り、一本の小道に入った。荒木町と言われている辺りだ。
  目的地はそろそろだという感覚があるが、なかなか見つからない。

 どこだろうか? 
 キョロキョロと周りの店々を見渡す。
 しかし、見つからない。
 
 この道ではないのだろうか。そう思った矢先、目印の牛の顔の骨が飾ってある店があった。ビルの灯りが暗く、店があるのかどうか見分けが難しい。
 が、その廊下のような部分に3人程の人が待っており、営業していることがわかった。

 廊下にある食券機で先に食券を買い、4人目に並んだ。
 ここは犬飼が学生の頃、先輩に連れてきてもらった店が、年を経て移転した場所だ。作り手はその時の店主から代替わりしている。

 しかし、味はあの頃を彷彿とさせ、とても懐かしく美味しいはずだった。前回いつ行ったかは思い出せない。

 父といい、学生の頃の先輩といい、今日は懐かしい思い出ばかりが蘇る。
 そして、今夜のコンサート、飛鳥にまた会える。どうしても心が浮き立つのだった。

 店内から一気に人が出て、あまり待たずに入店できた。
 食券を渡し、カウンターに座る。中はかなり狭目だが、店内は犬飼で満席。少し薄暗い。この暗さが昔懐かしい。
 目の前に並んだ幾つかの寸胴からは沸騰しけむりがまるで工場のように立ち昇っている。
 
 チャッチャッチャッ♪

 チャッチャッチャッ♬

 チャッチャッチャッ🎶

 徐に店員が湯を切り、具材を手際良く載せている。楽しみになっていた。
 先輩に初めて連れて行ってもらった有名なラーメン屋。それがここだった。

 地元の有名でないラーメンは食べたことがあったが、有名店に行くという行為そのものがワクワクしたが、更にその店の味の旨さに感動したことを思い出す。今だに忘れられない味なのだった。

「はい、お待たせ致しました」
 沈黙を破るように店員が丼を前に出す。
「ありがとう」
 丼を受け取る犬飼。
「おお!」
 思わず声が漏れる。



 これだ。この醤油の濃さと透明感。それに卵細麺、そしてホロホロと溶けるチャーシュー。食べる前から涎が出てきそうだ。



 まずはスープをレンゲで掬う犬飼。

「ふお!」

 懐かしい、いや、うまい。濃い醤油の尖りと塩気。たまらない。



 犬飼はレンガを置くと、徐に麺を啜った。

「ゲホゲホッ」

 熱さと気管支に麺が挟まり咽せる。俺としたことが、焦っちまったぜ。

 しかし、うまい。この麺特有の腰とつるつる感。スープをよく引き立てる。

 次にチャーシューを食べる。

「ふほ!」

 やはり口の中に入れた途端ホロホロと溶けていく。しかし、ぎゅっとした食感と塩気。たまらない。それをスープに浸して流し込む。スープの醤油味が更にチャーシューをうまくする。頭からドーパミンがドバドバでているのを感じる。


「これを幸せと言わずに何というか」

 犬飼は独りごちた。


 旨すぎる。あまりに旨すぎる。これはまた来たくなってしまう。困ったものだ。痩せたいのに。こりゃこの後サウナにでも行くか。まだコンサートまでに時間はたっぷりある。


 全て平らげると犬飼は店を出た。

「困ったなぁ」

 先ほどのセンチメンタルも吹っ飛んでしまった。しかし、先輩には感謝しないとな。むしろ大学に入って良かったのはこのラーメン屋を見つけたことかもしれない。大袈裟ではなく、そう思う犬飼だった。


♦︎


 あれから一度家に帰り、着替えを済ませた犬飼。濃紺のコーデュロイのジャケットに濃紺のネクタイ。下はグレーのスラックス。程よい硬さで上品にまとめた。


 昼のラーメンの分はサウナでなんとか落とし、見れるような感じに整った。

「飛鳥を見るだけで会えるわけじゃないのに…」

 犬飼は独り苦笑した。


 四ツ谷の紀尾井ホールまで、タクシーで向かった。たまには余裕を持ってもいいだろう。何せ今日は休日なのだから。


 ホールに着くと意外と人がいることに驚いた。この金山という男、そんなに凄いピアニストなのか。クラシックを知らないわけではない犬飼。今日はその意味でも楽しみだった。演目のショパンは特に好きだ。バラード一番も予定され、エチュードもいくつかあった。嵯峨野飛鳥とは何を弾くのだろう。楽しみだ。

 犬飼はホールに入って行った。


♦︎


 犬飼一郎を背後から見ながら、ホールに入る男がいた。無表情で目立たないスーツを着ている。

 男は携帯電話を取る。

「来栖か。今夜は一人で音楽鑑賞だ」

「優雅ですね」

「ああ。そう願う。悪い予感が当たらなければいいが」

「応援は?」

「必要ない。今夜はそこまでするつもりはない。四ツ谷だ」

「必要ないなら場所は不要では?」

「ふん、念のためだ」

「了解」

 携帯電話が切れた。


 警視庁公安部刑事の柳田和弘はホール入口で渡されたチラシを見る。

「金山か犬飼か、はたまたそのほかの登場人物か。さてと、楽しみだ」

 柳田は独りごちた。


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 平泉雪成は、ブラックスーツを着て胸にはチーフを入れて会場に訪れていた。自分のライバルの金山彰の演奏を見届けるためだ。いつか嵯峨野飛鳥に会うためにも、まずはライバルの腕を見届けなくてはならない。緊張していた。


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 犬飼は会場で、嵯峨野飛鳥の名前をつげ、チケットをもらう。他の客よりなんとなく優越感を感じる。自分は演者と知り合いなのだと誇りたくなる。

 馬鹿な…浅はかな…いや浅はかとも違う感情。嵯峨野の何になりたいのだ、俺は。珍しく浮き足だっている自分に気づく。

 自分の席に着くと、少し離れたところから「よお」と声をかけられる。

「あれ、おまえ、何で?」

 見覚えのある優男、最高学府の准教授貝塚弥子が手を挙げて座っていた。

「悪いか?クラシックは好きなんだ」

「いや、悪くはないが。まぁいい。寝るなよ」

 犬飼は、軽口を叩く。

「お前だよ」

 すかさず返してくる貝塚。全く口の減らない奴だ。犬飼は、前方のグランドピアノを見つめた。


♦︎


 伊藤洋平は、チノパンに黒のジャケットを着て二階席に座っていた。

 結局来てしまった。

 先ほど来る時に例の刑事が来ているのが見えた。向こうは自分に気づいていないようだ。

 さて、この金山彰というピアニストの腕はどれほどのものか。彼はスパイなのか。

 それを自分なりに見極めてみよう。伊藤は会場全体をゆっくりと眺め、目を閉じた。


♦︎

 

 開演時刻直前を告げるベルがなった。観客は皆静まり返る。嵐の前の静けさのように、会場の電気はふっと消え、反対に舞台が明るく照らされる。

 スタッフの姿が消え、いよいよコンサートは本番を迎えようとしていた。


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