伊藤洋平は神田を歩いていた。

 伊藤は昔神田の下町に住んでいたため、休日になると当てもなく神田の街をぶらぶらするのが好きだった。

 歩いていると神田明神の鳥居が目に入って来た。最近神社に詣でていない。たまには行ってみるかとその鳥居をくぐる。その時は背後からものすごい勢いで走ってくる人影に気付いた。

 伊藤はサッと身を翻し鳥居の一方の柱の陰に身を寄せて右手を顔の前に構えた。その身のこなしはあまりに滑らかで周りの人が何故か伊藤に気づかないほどだ。

 

 伊藤は元傭兵だった。フランスの外国人部隊に所属していた。今は退役して、祖国の日本に戻っている。平日はカフェで働いている。


 背後から駆けて来た男は誰かに追われているのか背後を振り返りながら走る。しかし、追ってくる者はいなかった。


 伊藤は詣ついでに彼の後を付けた。暫くするとその背後に男がひとりゆっくりと歩いてくるのが見える。彼が追手かと思ったが、まだわからない。しかし、彼はスーツを着こなし歩様に無駄がない。


 境内に入る。

 先ほどの走っていた男は良く見るとイケメンで綺麗なスーツを来て、まるで芸能人のような出立ちだ。

 彼はそそくさと参拝を済ませると境内にあるホールの中に入っていった。


 伊藤は参拝を後回しにして彼を追ってホールに入った。中では神社のグッズが所狭しと並べられ、奥にはカフェまであった。

 更に地下にもフロアがあり、降りていくと『金山彰帰国コンサート記者会見会場』とある。

 本当に芸能人だったのか。痴情のもつれか、となると背後のスーツの男も気のせいか。


 何人かの関係者のようなものたちが会見場に入っていく。

 伊藤もぼぉっとしていると、横にいるスタッフから声を掛けられた。

「まもなく始まりますので、中へ」

 記者証など持っていないのだが、首から掛けていた交通系ICカードケースが記者証に見えたのかもしれない。


 伊藤は成り行きで会見場の一番後列のパイプ椅子に座った。

 その後からも大勢の記者らしき者たちが入ってくる。

 そんなにも有名な人物なのかと周囲を見渡していると隣に座る男の膝に置かれてある紙に、チャイコフスキー国際音楽コンクールピアノ部門準優勝とあった。

 なるほど彼はピアニストだったのか。チャイコフスキーとなると、確かにこのぐらいの人は集まるのかもしれない。


 良く見ると伊藤の反対側の一番後列のパイプ椅子に先ほどのスーツの男が座っていた。

 彼は関係者だったのか。いや、しかしそれとも違うような気がした。


 記者会見が始まった。チャイコフスキーコンクールのことを中心に友人関係や師匠の話などが聞かれている。先ほどのスーツの男はあくびをしていた。


「ロシアの留学先では主にどこに行くことが多かったですか?」

 記者が質問する。

「そうですね、おもに音楽院のそばにいることが多かったですね。友人もたくさんできましたし。あ、たまにクレムリンに観光に行くこともありましたよ」

 金山が答える。その時はスーツの男が真顔になった。


「外国人の友人もたくさんできたということですが、学生以外にはどんな?」

「ええ、いろいろお世話になった方々もいました。大使館の方なんかも大変良くしてくださいました。意外と言ったら失礼ですが、ロシアの政府の方も非常に良い方ばかりで、何かと助けてくださいました」

「恋人なんかも、もしかしてロシアで?」

 記者はざわつく。


「いえいえ、それは秘密です。はははは」

 如才なく、少し記者を盛り上げるように受け答えする。慣れたものだった。これは国内でも人気が出るだろうと伊藤は思った。

「次はいつまで日本に?」

「暫くいるつもりです。コンサートもいくつか予定していただいておりますので」

 先ほどのスーツの男もじっと耳を傾けている。


「日本で会いたい人はいますか?」

 スーツの男は顔を上げる。

「そうですね、昔いろいろ一緒に学んだ仲間がいるのでその人たちに」

 スーツの男はメモを取っていた。


 記者会見はまだまだ続きそうだったが、飽きてきた伊藤はそそくさと会場を後にした。

 

 今度はゆっくりと参道を歩き、参拝する伊藤。 やはり、参拝すると心が落ち着く。日本人だからだろうか。

 参拝を済ませ、門に向かっているところで、声を掛けられた。

「よお、兄さん」

 見ると先ほどのスーツの男だった。

 伊藤は片足を浮かせ、いつでも動ける姿勢を取る。少し右手を顔の近くに持っていく。


「そんな怖い顔しなくてもいいだろう」

 男には余裕がある。どんな手合いだろうか。考える。ヤクザには見えない。

「あんた、悪いけど、あの金山って男の知り合いかい?」

「いえ、別に」

「じゃ音楽記者さんかい?」

「いえ」

「じゃなんで会見に参加した?」

「特には、成り行きで」

「そうか」

 何かを考える風でいて抜け目なくるこちらを見ている。

「あの、もういいですか?」

「ああ、すまんすまん」

 伊藤はその男の前を通り過ぎる。

「あんた、ただもんじゃないだろ?」

 背後から聞いてくる。こう言う場合の質問が一番聞きたい質問だ。

「あなたに言わないとならない理由が?」

 スーツの男と束の間睨み合う。

「違いない」

 男は手をひらひらとさせ、伊藤から離れて行った。伊藤はホッとして、門から離れていく。

 

 伊藤はそのまま御茶ノ水まで出て、さらに神保町まで歩いた。思わぬ緊張を強いられ腹が減って来た。

「Rスリランカ?」

 良く見るとカレー屋だった。

「入って見るか」

 店の中に入ると、結構な混み具合。ひとりだと告げるとカウンター席に案内された。


 スパイスカレーの店か。売りはトンカツのような豚肉が乗ったカレーか。しかし、今週のカレーは野菜のようだ。



 よし、今日はこっちだ。伊藤は店員を呼び今週の限定カレーである8種の野菜のカレーを注文した。


 しばし待つ間にも、どんどん人がやってくる。人気店のようだ。


 はい、お待たせしました。



「ほほーう」

 これはそそるな。ルーが、ぐつぐつしている。



 凄い量の野菜だ。うまそうだ。

 スープを最初に口に入れる伊藤。ピリリとしたスパイスが心地よい。ココナッツの風味もありスリランカと言われるとそのように感じる。しかし、とても食べやすい。


 大きなカボチャを食べるとカボチャの甘みとカレーの辛さが溶け合いうまく融合している。これはうまい。ブロッコリーも素揚げになっていてルーと混ざり合うとよりその旨みが増す。四角に固めたターメリックライスもルーが少しふやかし、食べやすくなっている。


 これは次は豚肉のトッピングの方を頼んでみよう。早速リピートすることが確定した。

 黙々と食べ続け、あっという間に食べ終えた。


 支払いを済ませ店を出る。うっすらと汗をかいている。左右を見る。先ほどのスーツの男はいない。しかし、彼は何を追いかけているのか。まぁいいか、俺には関係ない。


 店を出て、水道橋駅に向かう伊藤。先ほどの会場でもらったチラシを見る。

「金山彰か…あまりこういうのには行ったことはないが、たまには聴きに行ってみようか」

 伊藤は独りごちた。


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