貝塚弥子(かいずか やこ)は、最高学府首都大学の自分の研究室で、珍しい訪問者を迎えていた。貝塚はスラっとした細身の長身で、若いながらも既に助教授。女子学生の中で密かにファンクラブまであるらしいとの噂だった。その元に今日は貝塚の幼馴染で、警視庁公安部の刑事柳田和弘がアポ無しで訪れていた。

「なんだいきなり、こちらも忙しいんだぞ」

「その言い方はないだろう。幼馴染だってのに」

 柳田は両手を上に上げて芝居じみたポーズを取る。

「ほら、深川共和堂のどら焼きも持って来たんだ。お茶でもだしてくれないか」

「全く…」

 貝塚は大きなため息をついた。貝塚はパッと見、他人に対して冷たいところがある。昔からそうだった。しかし、少し不器用なだけだと本人は思っている。柳田は気にした風もない。

 貝塚は研究室の学生に日本茶を二つ入れるように指示した。


「それで、今日は一体なんの用だ」

「おお、今日はな、これを見れるようにできないかという相談だ」

 柳田は鞄の中から透明なフィルムケースに入ったフィルムを出して、貝塚に渡す。

「ただのフィルムじゃないか。店に出すか、警察内部でやればいいだろう」

「そうもいかないんだ。何が写ってるか知られたらまずいからな。警察でもどの部署も仲間というわけじゃない。あまり知られたくないんだ」

「そんな物騒なもの、俺も知りたくない。狙われたらどうするんだ」

「それは大丈夫だ」

「何が?」

「この件は俺しか知らないからだ」

「ふん、怪しいものだ」


 貝塚はどら焼きに手をだす。出そうとしたところで柳田はそれを引いてとらせないようにした。

「なんだ?」

「やってくれるか?」

「汚ない奴だ。どら焼きだけでは駄目だ」

「勿論きちんと報酬も払う」

「わかったよ。あまり時間はかけないぞ。見れない場合もあるからな」

「わかってるよ」

 柳田はどら焼きを差し出した。

 貝塚はそれを一つ取り大きな口を開けてほうばった。

「うまい」

「だろう。どら焼きに罪はない」

 柳田は笑った後にお茶を啜った。

「じゃあ三日後にまた来る」

 そう言って柳田は研究室を後にした。


 貝塚は柳田から受け取ったフィルムを光に透かして見てみた。あいつの言う通り黒ずんでいて何も確認できない。

 貝塚は戸棚からある液体を持って来て、それにフィルムの一部を浸した。それを小さな部屋に入れて扉に鍵をかけ、一限の講義に向かった。


 講義から帰ってくると、再び扉の鍵を開けて先ほどの液体からフィルムを出し、布で丁寧に拭くと、それをまた光に透かして見た。先ほどより黒ずみが取れているが、やはり内容が確認できるほどではなかった。

「こりゃここでは無理だな」

 貝塚は大きなため息をついた。


「仕方ない、あそこに持ってくか。こりゃ少し高く付くぞ」

 貝塚は携帯電話を取り出し電話を掛けた。


 昼前に貝塚は車に乗って目黒まで向かった。目的の場所まで来ると、車を近場のパーキングに止めて徒歩で目的地まで向かった。

 その途中に、昔ながらの中華屋を見つけた。

「そっか、この店があったか」

 時計を確認した。約束の時間にはまだ少し余裕がある。

「行く前に腹ごしらえといくか」



 大鳳飯店。かなり昔からある中華料理店。いわゆる町中華というやつだ。昔大学の友人に連れられて来たことがある。以来この辺りに来るとつい寄ってしまう。

 素朴な味だが、なんとも後ろ髪を惹かれる味なのだ。

 貝塚はガラッと引き戸を開けて店に入る。運良くカウンターが一席空いており、そこに滑り込んだ。



 メニューはいろいろあるが、今日の日替わりはラーメンとミニカレーご900円だった。


「すいません」

「はい」

 高齢のお母さんが注文を取る。

「日替わりと、半チャーハン。カレーはご飯少なめで」

「カレーあるけど、チャーハンいいの?」

「あ、はい。カレーはご飯少な目で」

「はいよ」

 お母さんが厨房にいる男性に注文を伝える。我ながら良く食べる。

 厨房の男性は大きな中華鍋を忙しそうに振っている。

 なかなかいい感じだ。


「すいません、満席なので外でお待ちいただいていいですか?」

 危ない危ない、他の客が外で待っている。タッチの差で待つ羽目になるところだった。


 

 ガサンガサン♪



 ジュワー、ガサンガサン🎶



 カウンター席からよく見える厨房では、大きな中華鍋が勢いよく振られている。その横で大きな寸胴から湯気が立ち込めている。

 活気があってうまそうだ。


「はい、お待ちどう様です」

 まずはラーメンが運ばれて来た。



 なんとも素朴な。昔ながらのラーメンだ。



 貝塚はスープを啜った。

「ほほう」

 やはりうまい。この調味料の味がたまらない。優しい中にもパンチ力がある。



 貝塚は勢い良く麺を啜る。

 ズルズルッ、ズルズルッ🎶

 うまい。

 小麦感満載のストレート麺にスープがうまく絡み合う。


「はい、カレーね」



 おお、来たか。

 貝塚はカレーを受け取るや否や無造作に頬張る。

 これも懐かしいカレーの味。甘めのルーだが後味は辛い。昔ながらの味だ。このトロみも良い。


「はい、半チャーハンね」

「来た、これだこれ」

 貝塚はお母さんから奪い取るようにチャーハンを受け取る。



 派手さはないが、このビジュアルがたまらない。

 まずは一口頬張る。飯は少し湿気があり、塩気は強目、これぞ町中華のチャーハンだ。やはりうまい。

 貝塚は、ラーメンを啜り、スープを飲み、カレーを食べて、チャーハンを食べるという一連の行為を流れるように何周も繰り返した。それぞれの塩気が脳を麻痺させドーパミンを放出させる。束の間天国にいるような快楽に満たされる。


「ふー。食べたなぁ」

 全ての皿を平らげ、そばに置かれた麦茶をゴクゴクと飲み干す。


「ご馳走様でした」

「1300円ね」

「はい。ちょうど」 

「また来てねー」

 なんとも素朴なやり取り。それがまた嬉しい。

 貝塚は店を出た。出ると外に並んでいたお客が入って来た。繁盛している。良かった。


「なくならないでほしいなぁ」

 貝塚は独りごちた。


 貝塚は腹ごしらえを終えると大鳳から暫く歩いたところにある古い写真屋に入った。

「お、来たか」

「すいません、お手を煩わせて」

「で、どんなしろもんだい?」

「これです」

 貝塚は持って来たフィルムを渡した。

 研究室で前にいただいた薬につけてみたのですが、ほとんど効果がありませんでした。


「うーん」

 店主はそれを光に透かして見ている。

「こりゃかなり汚れてるな。いや、故意に汚しているのかもしれない。何が写ってんだろうなぁ」

「それが僕にもわからずで」

「一応試してみるか。見れなくても悪く思うな」

「はい、大丈夫です」

 店主はフィルムを持って奥へ引っ込んだ。


 全く面倒ごとを持って来てくれる。昔一度か二度柳田の仕事をこっそり手伝ってやったことがある。それが事件解決に繋がったらしく、とても感謝された。その時は正義のためだと思って手伝ったものの、こうも頻繁に頼られては困る。いっそ、今回の依頼を駄目にすることで、次からの依頼の牽制になるかもしれない。そんなことを考えていると、店主が帰ってきた。


「ほらよ、ちょっとだけ見えるようになったぞ」

 店主がフィルムと、そこから何枚か紙に焼いて写真として手渡してくれる。

 それを受け取って、貝塚は動きを止め、自分の目を疑った。

「どうした?これが限界だな」

 店主が心配そうに聞く。

「は、はい」

 暫く声が出てこない。


「どうした?文句言うなよ」

「あ、いえ、むしろありがとうございました」

 フィルムを受け取る貝塚。

 代わりに本郷三丁目の和菓子屋で買った栗きんとんを渡す。

「すまんな。これに目がなくてな」

「いえいえ、面倒ごとを持ち込んで申し訳ありません。あの…」

「わかってるよ。秘密なんだろ。もう覚えてないから大丈夫だ」

 そう言うと店主はウインクした。

「ありがとうございます」

 貝塚はありがたいと思うと同時に、丁寧にお辞儀をしてその店を出た。


 車を運転し大学に戻る。その間、考えを巡らしていた。

 鮮明ではないが、貝塚の友人の犬飼が写っていた。そばには髪の長い女性が写っている。男は多分犬飼だろう。女性の方はわからない。

 何かをやりとりしている。なんだろうか。柳田は公安だ。日本の秘密…犬飼は国内大手メーカーだ。何か技術にかかわるものなのか。隣の女性も鮮明にはわからないが、どこかで見たことがある気がする。犬飼の彼女ではなさそうだが。


 柳田にどこまで喋るべきか…。


 いや、幼馴染ではあるが、やはり犬飼を売ることになる。それは避けたい。何かをやらかすような奴では無いはずだ。

 気がつけば大学の駐車場に入っていた。

 フィルムと写真を鞄に入れて、自分の研究室に戻る。

 「よお、待たせて貰ってた」


 ドキリとする貝塚。まるで計ったように柳田が研究室でコーヒーを飲んでいる。

「どうした、そんな顔して。何かあったか?」

 一緒躊躇する貝塚。すぐにポーカーフェイスに戻す。

「来るなら来るって連絡しろよ。ここはそう簡単に入っていい場所じゃない。いくらおまえでもな」

「すまんすまん、次は気をつけるよ」

「ったく。で、なんだよ、期限は三日後だろ」

「ちょっと進展があってな、もしわかるならと思って寄らせて貰ったんだ」

 貝塚はコートを脱いで、ハンガーに掛ける。コーヒーメイカーに入っているコーヒーを自分のマグカップに注いで、一口飲んだ。


 その間も考えていた。フィルムが見えるようになったかどうかを話すかどうか、そしてあの写真を渡すかどうか…。


「おい」

「うん?」

「報酬だがな、少しいつもよりもらうぞ」

「なんだ、見れたのか!?」

「いや、そこまでは駄目だった。ただ、」

「ただ、なんだ?」

柳田が腰を浮かす。


 「ごめん、西原くん、さっき大会議室に眼鏡を忘れて来てしまって、取ってきてくれないか?」

「わかりました」

 助手の西原くんは研究室を出て行った。


「人払いして、どうしたんだ?」

 柳田は半笑いで尋ねてくる。明らかに何かを勘付いている。

 貝塚は腹を決めた。

「ほらよ」

 紙袋を机にドンと置いてフィルムを転がした。

 柳田が紙袋に手を伸ばすと、それを貝塚は引いて取られないようにした。

「なんだ?」

「悪いが今回はいつもの費用の2倍にしてくれ。それが無理ならこの写真は渡せん」

 柳田と目が合う。

 暫く沈黙が続く。


「いいだろう」

 柳田が言って、貝塚は紙袋を渡した。

 中を確認する柳田。

「不鮮明ではあるが…写ってるな。見事だ。恩にきる」

「ああ。ところで」

「なんだ?」

「今回はどんな事件なんだ?」

「それは言えん。すまん」

「いや、いいんだ」

「もしかしてこの写真に写ってる奴らを知っていたりするのか?」

 鋭い。

 しかし、それ以上は言えない。どのみちしっかり調べたらわかるのだろうが、まだそこまでではないと祈ろう。


「いや、知らん」

「ほんとか?」

 睨めつけるような目で見る柳田。

「本当だ」

 貝塚も柳田を見つめる。無心になれと自分の心に訴えた。


 先に目を逸らしたのは柳田だった。

「物騒な話ではないが、産業スパイが国内に紛れ込んでいるという話がある。ただ、こいつらがどうしたという段階ではない。安心しろ」

「そうか」

 内心ホッとする貝塚。

「今はな」

 再び貝塚を見つめる柳田。

 悟られてはならない。

 貝塚は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。


「ありがとうな。報酬も二倍。問題ない」

「ああ」

 柳田は上着を手に掛けて研究室を出ていく。扉が閉まる。

 貝塚は大きなため息をついた。


 すると再び扉が開き、柳田が顔を出した。

 ドキリとする貝塚。

「何かあったらまたくる」

 柳田は右手の人差し指と中指をおでこに当てて敬礼した。

「ああ」

 貝塚は今度こそ大きなため息をついた。


 いや、きっと大丈夫だろう。全て調べた上で俺に頼んだはずだ。しかし、犬飼に会うときに俺に何ができるだろうか。

 自問自答したが、まだ答えは出てこなかった。


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大鳳飯店03-3491-3939
東京都目黒区下目黒2-15-16
https://tabelog.com/tokyo/A1317/
A131710/13092796/