「飛鳥?」
「久しぶりね、元気?」
「あ、いや…」
犬飼一郎は言葉が出てこない。目の前にいる洗練された美しい女性が自分の知り合いだとはとても思えなかった。
「どうしたの?ふふ」
犬飼と違って女性の方は余裕しゃくしゃくだ。格の違いを感じる。
「ほんとに、飛鳥?」
思わず聞いてしまう。
「やだ、何言ってんのよ飛鳥よ。変わったかしら?」
「変わったも何も。いや、前に会ったのって、もう高校生だよな。そりゃ変わるよ」
「確かに。そうね、変わるか。もう20年近くになるもんね」
「ああ…今は何を、あ、どっか入らない?時間あるなら」
嵯峨野飛鳥は時計を見る。忙しいのだろう。一目見て飛鳥があの頃とは変わってしまったことを痛感する。
「30分ぐらいなら平気かも」
「そ、そうか、あ、じゃあそこの喫茶店入ろう」
犬飼は京橋駅でハンバーグを食べて、その店を出た直後に、高校の同級生だった嵯峨野飛鳥に声を掛けられた。あまりに美しくなった飛鳥の姿に犬飼は戸惑っていた。
店に入ると、犬飼は適当な席を探し、飛鳥を奥に座らせた。
飛鳥は優雅に座るとコートを脱ぎ、空いている席に掛けた。
コートを脱いだ飛鳥は艶やかなブルーのドレスを着ていた。
「これから、パーティーか何か?」
「ええ、そうなの、ちょっと呼ばれていてね」
「そ、そうなんだ」
何をしているかわからないが、自分とは全く違う世界に行ってしまったようだ。
犬飼はとりあえずウェイターを呼んで、アイスコーヒーとアイスティーを頼んだ。
「で、犬飼くんは今何をしてるの?」
「あ、あぁメーカーで働いてるよ。プロモーションとかマーケティングとかが担当。あ。いやいいや」
犬飼は名刺を出そうとして、その手を引っ込めた。名刺を見せて更にがっかりされるような気がしたからだ。
「何?」
「なんでもないよ」
「そう。仕事は充実している?」
「え、う、うん、まぁまぁ」
いろいろな考えがよぎった。ミドルエイジドクライスに陥ってるなんて、目の前の自信に満ち溢れている飛鳥を前に言う勇気はなかった。なんだかちっぽけな悩みに思えた。
「飛鳥は元気?、元気そうだけど、、、」
「何?」
余裕の笑み。なんだろうこの違いは。本当に同級生だったのだろうか。
「あ、あのさ、ほら、高校卒業して、ほらヴァイオリンやってたろ?音大行ったんだっけ?まだ続けているの?、あ、いや答えなくてもいいよ」
音楽なんて続けるのが難しい、挫折したりいろいろあるデリケートな問題だった。失敗したかもしれない。いや、なんで俺はこんなにも卑屈に…犬飼は顔が熱くなってきた。
「やってるわよ」
飛鳥は自信を持って答えた。
「あ、そうなんだ、良かった」
「良かったってのは?」
なんだ、まるで尋問を受けているみたいじゃないか。だんだんと畏れを通り越して怒りが湧いてきた。俺は卑屈になる必要ないじゃないか。たかが同級生だろう。犬飼は思い直した。
「いや、音楽続けるのは大変だらうからさ。聞いちゃいけないかもなって思ったんだ」
「ふふ、相変わらず気を遣ってくれるのね。優しいね。変わってない」
「いや、、、はは」
犬飼が照れると飛鳥は笑った。
その笑顔を見て犬飼は思い出した。
♦︎
あれは高校一年のバレーボールの授業だった。男女混合でバレーボールをやるという珍しい体育の授業があった。勿論親睦を兼ねた授業だった。
犬飼は飛鳥と同じチームだった。高校生ともなると中には特にうまい奴もいる。相手チームにそういう奴がいた。
そいつは良いところを見せようと気張っていた。男を中心にボールが回っていたが、たまたま奴のスパイクが飛鳥のところに向かった打たれてしまった。
犬飼は飛鳥がヴァイオリンをやっていることを知っていた。しかも、結構うまいらしいということも。飛鳥はレシーブの構えをしたが、きっと奴のボールは強いだろう。これはまずい。咄嗟に身体が動いた。隣にいた犬飼は飛鳥の前に飛び込んだ。
バシッという音とともに犬飼は床に倒れ込んだ。奴のボールをもろに顔面で受けてしまった。当たった瞬間一瞬意識が飛んだ。数秒後鼻が暖かく感じ、その後痛烈な痛みが訪れた。
鼻血が滝のように流れていた。
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
飛鳥の心配そうな声が聞こえた。
気がつくとベッドに寝ていた。目を開けると横に飛鳥が座っていた。
「あれ…」
「良かった、気がついたわね。ふふ、ふははははははは」
飛鳥は心配そうな顔から一転吹き出した。
「どうしたの? いてて」
鼻に激痛が走った。二つの花の穴に大きめの脱脂綿が突っ込まれていた。
「そっか、さっきの」
「思い出した?」
「うん。恥ずかしいよ」
消え入りそうな声で呟いた。
「ううん、とってもカッコよかったよ」
「え、まじ?」
「はははははははは、もうやめてよ、はははは」
再び飛鳥は笑う。
「ひどいな」
「ごめん、その顔見るとさ。笑っちゃって」
「ははは」
犬飼は力なく笑った。
「うそ。ごめんね。ありがとう。犬飼くん、とっても優しいのね。知っててくれたんだね、ヴァイオリン」
「ああ。誰かから聞いたんだ。飛鳥のヴァイオリンは凄いって。あのボールは受けちゃだめだと思ったんだ」
飛鳥は黙り込む。犬飼も黙る。沈黙が流れる。
「なんか、悪いこと言っ…」
言い終わる前に飛鳥は寝ている犬飼の頭を抱いた。そして、離すときに犬飼のおでこに飛鳥はキスした。
「ありがとう。優しいね犬飼くん」
「え…」
一瞬なんだかわからなかったが、再び二つの鼻の穴から鼻血が流れてきて、脱脂綿が二つとも真っ赤に染まった。
「あー、あははははははは」
飛鳥はまた大きく笑った。犬飼も照れながら笑った。もう鼻に痛みを感じなかった。
♦︎
それを今思い出した。
「ねえ、もしかして、俺の鼻血思い出してた?」
「え?」
真顔になる飛鳥。しかし次の瞬間吹き出していた。
「ははははははははは」
あどけない笑顔は昔のままだった。いや、なんだか更に可愛いらしい。犬飼はその笑顔に見惚れてしまう。
「ひどいな」
言いながら犬飼も笑った。
二人は運ばれて来たアイスコーヒーとアイスティーを飲んだ。
「ねぇ、今度ね、来週なんだけど、私これにゲストで出るの。良かったら来てみて。後半だから、もし来れるならメッセージして」
そう言って飛鳥は鞄からコンサートのチラシをテーブルの上に出した。
『金山彰、帰国公演。情熱のショパン、バラード1番、英雄ポロネーズ他。後半豪華ゲスト出演あり』
と書かれてある。
金山彰と言えば今人気が急上昇しているピアニストだ。それにゲスト出演するなんて。しかも都内有数のホールだ。やはり、凄いのだ。
「今、どこに住んでるの?」
「あ、ニューヨークよ」
「え!」
「ちょっといくつかコンサートがあって帰って来たばかりなの」
「まじ…なんだか次元が違うな…」
「そんなことないわよ。バレーボールもうまくなってないし」
「それ嫌味?」
「ふふ、どうかしらね」
再び二人は笑った。
まずい、明らかに心が動いている。犬飼は久しぶりに自分がときめいているのを感じた。
「そろそろ、行かなくちゃ。できたら見に来てね」
「ああ、なんとか行けたら、行きたいな」
「うん」
二人は立ち上がり、店を出た。
「じゃあまたね」
「また」
手を上げる犬飼。それを見た飛鳥は慣れたようにハグをする。犬飼の鼻に彼女の良い香りが抜けていく。クラクラした。
颯爽と去る飛鳥。犬飼は彼女が道を曲がって見えなくなるまで見送っていた。
♦︎
「いやー、恋っすねー、一郎さん」
行きつけのマッサージ師にグイグイ背中を押されながら施術を受ける犬飼。
「え、やっぱり?そうなのかなぁ。でも、もういい歳だよ俺は」
「歳は関係ないっすよ。でもいいじゃないですか、羨ましいな」
「いや、雲の上の人だからさ。無理だよ」
「でも、同級生でしょ?可能性あるじゃないですか」
「え、そうかなぁ…」
まんざらでもない犬飼。しかし、流石に無理だよなと再び考える。
「いててててて!」
マッサージ師が更にぐいっと背中を押す。
「これくらいやらないと、いざという時動けないっすからね。いつチャンスがやってくるかわからないんだから」
「いてててて!そんなこと言われても」
犬飼は気持ちよさと痛さで眠りに落ちた。
「ありがとうございました〜。頑張ってくださいね!」
「いや、そんなんじゃないよ」
犬飼はマッサージ屋を後にした。
「13時か、昼飯でも食べよう。確かこの辺にあったよな?」
昼過ぎの時間、犬飼は赤坂5丁目のそばにある店を目指した。その店の外に一人の客が並んでいた。
「外待ち一人か。いけるな」
犬飼はその一人の後ろに接続した。
會水庵。
和食の店。ランチは鰯の蒲焼きとシラスの親子丼、または焼穴子とふわとろ卵の丼で有名な店だ。
ほどなくして犬飼は呼ばれる。
カウンターに座ると「焼穴子玉子ふはふは」を注文した。
店主が大きな穴子の蒲焼きを鉄の焼き台に掛ける。勢いの良い火が見える。
その上でパチパチと穴子が焼かれていく良い音がする。
「お待たせしました。穴子です」
丼のセットが置かれた。
小さな小鉢が二つと味噌汁がついている。
「これは見事な…」
犬飼は独りごちた。
器をはみ出るほど大きな焼き穴子にふわふわでトロトロな玉子焼き。このビジュアルで、まずいわけがない。
「ものすごいボリュームだ」
犬飼は、箸を丼の真ん中に突っ込み、玉子と穴子を同時に突き刺した。
ふわふわの玉子が箸からこぼれ落ちる前に口の中に放り込む。むしろ迎えにいくというほうが正しいだろう。
「ふお!」
甘い玉子に甘じょっぱい蒲焼きのタレとふわふわの穴子。まさにふはふはだ。
口の中で穴子と玉子とタレの甘みが重層的に響きあい、ジューシーな旨みがほとばしる。
これは由々しき事態だ。穴子のうまさが脳天を突き抜ける。
箸を止めることができない。
カツカツカツカツ♪
犬飼は丼を手に持って穴子と玉子をかき込む。
「う、うまい」
カツカツカツカツ♪♪
「た、たまらん。はふはふ」
どんどん無くなっていく穴子と玉子。しかし止められない。タレのかかったご飯がまた後を引く。
あっという間の闘いだった。まるで一瞬の夢だ。昨日の飛鳥のハグのようだ。
い、いかん、何を俺は。犬飼は首を左右に振った。
「ご馳走様でした」
犬飼は会計を済ませ、店を出た。
なんだか気分がイイ。飛鳥と穴子のおかげだろう。
「来週か。やはり行くしかないよな」
犬飼は携帯でホールの場所とコンサートの時間を確かめた。ホームページには金山彰が上を向いている写真が大きく載っている。しかし、頭に浮かぶのは昨日不意に会った飛鳥の美しい顔だった。
「コンサート行かせていただきたいです。一枚お席を確保していただけると嬉しいです」
メッセージを打って、ポケットに携帯をしまう。
「さてと、オフィスにでも行くか」
犬飼は伸びをして歩き出した。
すぐにピコッという音とともに携帯が震えた。
「ありがとう。私を見て鼻血ださないでね」
短くも楽しい返信があった。思わずニヤける犬飼。
なんとなく気になって鼻を触り、その手を見た。
特に赤くなってはいない。
しかし、信号は赤だった。
「危ない危ない。何やってんだか…」
呟くと同時に信号は青に変わった。
犬飼は、よっと一足分ジャンプして、再び歩きだした。
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會水庵
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