シトシトと雨が降っていた。
 貝塚弥子(かいづか やこ)は、憂鬱げな目で空を仰いだ。

 貝塚は最高学府首都大学の准教授なのだが、今日は別の大学で、ある学会の発表を聴講し終わり、自宅に帰る途中だった。
 学会では、ある技術者が、「古い映写機で映す映像の効用と、デジタル技術の発展」というテーマの発表を行った。
 その中で、発表の最後で、その発表者がオカルトめいたことを言った。
「昔から言われていることではあるものの、何人かの撮影関係者が揃って言うことの一つに、昭和初期中期に作られた古い映写機には、なぜだかわからないが、本来映っているはずのない登場人物がなぜか映っていることがあるという話が度々報告される。それは、関係者の悪い冗談かもしれないし、あまりにそれを言う人が多いので、もしかしたら本当かもしれない。特に雨の日にそれは起こりやすい」
 そのような余談で締めた。しかし、その語り口に信憑性があったため、彼が話し終わった後、会場は静まり返った。
 そんな馬鹿なことがと貝塚は鼻で笑った。しかし、なんとなく気になった。

 学会が終わると会場の最寄りの駅から都営浅草線に乗り、三田方面に向かっていた。
 ぼんやりと車内に掲示してある路線図を見ていると、自分が降りたことのない駅があるとふと思いついた。

 朝から雨が降っていたが、路線図の中で気になった古い街人形町駅で降りることにした。

 地下鉄を降りると、自分の後ろから背の低い女子中学生が貝塚の背中にぶつかりながら、エスカレーターを駆け上がっていった。危ないなぁとおもいながらも、彼女を昔どこかで見たことがあるような、いや、やはり気のせいかと、思い直した。

 地上に出ると、やはり雨が強めに降っている。学会を出る時に借りたビニール傘を広げて街を歩いた。
 遠くをよく見ると、先ほどの少女が傘もささずに走っていくのが見えた。
 風邪など引かぬといいがと貝塚は思った。

 大通りから一本奥に入り、特に当てもなく街を散策してみたが、人形町の駅のそばは碁盤の目ようになっていて、途中でどの辺を歩いているのか分からなくなってしまう。
 街は雨でけぶっており見とおしも悪く、方向感覚が鈍くなる。
 さらに雨は強くなり、肌寒くなってきた。なぜ自分がこんな駅で降りたのかと自分でもわからなくなっていた。

 そうこうしていると、先ほどの少女がしばらく先の小路を横切るのが見えた。相変わらず傘を刺していない。
 いよいよ大丈夫なのかと、貝塚は少し速足で少女を追いかけてみることにした。

 速足ですすむと、道路の水が跳ね、ズボンに泥水が跳ねる。靴にも少し水が入り足も冷たくなってきた。
 少女は意外にも速く歩くためなかなか追いつけない。何度か角を曲がるともはや自分がどこにいるかわからなくなってきた。

 流石に寒くなってきて、もういいかと思った頃、少女の背中が大通りに戻るのが見えた。一体何をしているのかと思い、走ってその後を追った。

 気がつくと元の駅の出口近くまで来ていた。そこでその少女はあるビルに入っていった。
 貝塚はそのビルまで行って少女の存在を確かめようとした。
 しかし、少女が入って行ったビルまで来てみたが、少女の姿はなく、エレベーターが一機あるだけだった。エレベーターが動いた形跡はなかった。

 はて、どこに消えたのだろうか。貝塚は考えた。考えたが名案は浮かばなかった。
 とんだ無駄足をしてしまったと思ったが、気がつくとうまそうなラーメン屋がそのすぐ隣にあった。お洒落な外装で「駄目な隣人」とあった。
「駄目なのは、俺か? よくわからないが寒いし、腹も減ったし、入るか」
 貝塚は自分に言い訳をするように呟き店に入った。
 
「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」
 店はエルの字のカウンターのみで、BGMは今風の音楽がかかったお洒落な店だった。
 席に着くと、メニューを書いた紙が置いてある。すき焼き飯とセットになったメニューがおすすめようだが、貝塚は特製ラーメンのみに止めた。1250円とまあまあ良い値段だった。
 貝塚はその紙に麺の太さを細麺に丸をつけ定員に渡した。
 店員はそれを受け取り厨房に消えていく。なるほどそういうシステムなのかと納得した。
 席には卵、海苔が置いてあり、それは食べ放題となっていた。気前のいい店だ。

 シューという湯の湧く音が厨房から聞こえてくる。貝塚は喉を鳴らした。

「お待たせしました」
 ラーメンが到着した。



 ほほう、これはうまそうだ。

 美しいチャーシューに、これまた美しい醤油スープ。期待が膨らんだ。


 レンゲでまずはスープを掬う。




 これまた美しい透明なスープ。一口すすると、醤油と出汁の優しい味わいが豊かに口の中に広がる。これは滋養溢れる味。単なるスッキリ醤油ではない。




 次に貝塚は、どれどれとチャーシューを持ち上げる。口の中に入れると柔らかにローストされたチャーシューのちょうどいい塩加減が舌を楽しませる。

 そして、更にチャーシューを食べると、その下には穂先メンマが隠れていた。



「穂先メンマには目がないんだよな」

 貝塚は独りごちた。


 そして、貝塚は徐に麺を啜る。



 勢いよく啜ると、ズルズルと心地よい音が店内に響く。

「これは、うまい」

 麺は細いがモチっとしており、スープをたくさん引き連れて口の中に入ってくる。腰もあり、わすかに甘みを感じる。

「この店は当たりだな。こんど犬飼を連れて行ってやろう」

 貝塚は友人のラーメン好き犬飼を思い出していた。


 その後は一心に麺を啜った。

 あっという間の感触だった。スープが優しいせいか、あまり胃にもたれない印象だ。

「さてと、お会計お願いします」

  食べ終わると、貝塚はお金を払って店を後にした。


 先ほどの少女など忘れていた頃、店を出たところで再び先ほどの少女が道を曲がるところだった。

 いや、もういいだろう。貝塚は少女を無視して地下鉄を降りていった。

 地下鉄の改札に来ると警察が情報提供を求める看板が置いてあり、この辺りで行方不明となっている少女の特徴が記載されていた。

 その少女の写真を見て、貝塚は目を疑った。

まるで先ほどの少女ではないか。

「嘘だろ…」

 自然と声が漏れていた。

 まさかな…しかし、背丈、格好、容姿がそっくりだった。

 貝塚は背中が寒くなった。


 雨はこの世の中にまぎれを産む。昔犬飼が言っていた。本当なのだろうか。

 いや、たまたま似ていただけだろう。

 貝塚は頭を掻きながら改札を抜けた。なんとなく背後が気になり振り向いたが、特に何も見えない。ホッとしている自分がいた。

 ホームに降り、ちょうど来た電車に乗る貝塚。

車両のドアが閉まる。ゆっくりと動き出す電車。


 車両の窓からホームを見る貝塚。離れていく列車。

 その時、ホーム奥、地上への階段を走って登っていく少女の後ろ姿が再び見えた気がした。


 人形町。古い街だ。

 もしかしたら、今日の学会の発表で言っていたことが現実にもあるのかもしれない。

 貝塚は発表者の名前を携帯電話のメモ帳に記録した。


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駄目な隣人東京都中央区日本橋人形町3–7-13
日本橋センチュリープラザ 1Fhttps://tabelog.com/tokyo/A1302/
A130204/13255889/