春の始まりを告げるように、首筋を通り抜ける風は犬飼一郎(いぬかい いちろう)の気分を高揚させた。
今朝は本郷三丁目にある名門大学、つまり最高学府たる東京大学であるが、犬飼は最近アサインされたプロジェクトで、デジタル技術の特集を組むことになっており、その世界では著名な東京大学メディアデザイン研究科准教授、貝塚弥子(かいづか やこ)と会っていた。
貝塚は34歳。准教授としてはかなり若い。
東京大学を久しぶりに訪れた犬飼。前に来たのは3年前だろうか。
犬飼は東京大学の古い校舎や木々が生い茂るキャンパスが好きだった。自分の出身であるW大学とよく似ており、ふわふわとした現代建築の軽薄さと違い、アカデミックな雰囲気と適度な落ち着きを感じるからだった。
犬飼は校舎に入り、スマホでメッセージを確認しながら貝塚の研究室に向かった。
静かな廊下。暗い廊下にややオレンジがかった西日が差し込んでいる。
時折学生とすれ違う。皆賢そうな雰囲気をしている。いや、それは勘違いか。
貝塚の部屋まで来て、扉を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
待ち合わせの時間に間違いないよな?
犬飼は腕時計を確認した。
「よお、久しぶりだな」
暗闇の中から聞き覚えのある声が聞こえて来た。
「ああ、どこにいるんだ?」
犬飼は声を掛けて辺りを見回すが目が慣れていないせいか居場所が全くわからない。
カチッという音とともに部屋の電気が付いた。
突然の明かりに犬飼は暫く瞬きをした。
「元気か? 前は確か…」
「3年前だ」
犬飼は答える。
「そうだそうだ」
中から180センチほどのスラリとした身長に、丸メガネ、パーマのかかったやさ男が立っていた。
「相変わらず忙しそうだな」
メガネの男が油断なく眼を光らせながら声を掛けてくる。
「おかげさまでな。おまえは?」
「見ての通りさ」
「というと?」
「今はこの古い映写機を使った映像の価値についての論文を書いている」
「相変わらずだな」
「K社の雑誌からの依頼でな」
「羨ましい。好きなことばかりやれるってのはなな」
「お前もやればいい」
「それができたら苦労しないぜ」
「人生一度きりだぞ、犬飼」
「ふん、わかってるよ。ところで、コーヒーかなんかくれないか?」
「図々しい奴だ、取材対象に向かっていう態度とは思えない」
「まぁそう言うなよ。感謝してるんだぜ」
「ふん。ほらよ。世界一のコーヒーだ」
犬飼は貝塚から出されたコーヒーを啜る。
「熱っ! これインスタントじゃないか」
「文句言うな。今研究生がいないんでね。どこにドリップをしまったのか皆目見当がつかない」
「世界一だなまさに」
「うるさい。時間がないんだ早く要件を済ませてくれ」
「ああ、わかってるよ」
犬飼がアサインされたプロジェクトは、昭和初期から中期に撮影された映画やドキュメンタリーから現代技術で撮影された今の映画やミュージックビデオなどを集めて、それらの歴史的な変遷をその時代に最も流行った映像を使って表現し、犬飼の会社の歴史を振り返る、いわばアニバーサリー的な映像作品を作ることだった。社内では、映像に合わせて犬飼の会社の製造物や大型機械の展示などを行うプロジェクトなども同時並行で行われており、会社を上げてのプロジェクトだった。
貝塚にはその構成を一緒に考えるために訪れたのだった。
暫く歴史的な話をした後、ちょうど貝塚が論文を書くために借りた映写機を見ながら2時間ほどの時間を掛けて打ち合わせを行った。
「疲れたな」
犬飼は大きな背伸びをした。
「腹も減った」
貝塚は答える。
「もう午後1時だぞ。どこか昼飯でも食うか? いいとこ知らないか?」
「最近見つけたうまいラーメン屋があるが、行くか?」
「おお、ちょうどいいな。行こう」
二人はコートを来て研究室を出た。
東京大学の中央の門をでて、本郷通りを南に歩く。赤門を通り過ぎてさらに靖国通りへ向かう。
暖かい風が二人に吹き付ける。まもなく大学入試だ。またここには希望に溢れる学生がやってくることだろう。犬飼の脳裏に遠い昔の大学の記憶が蘇った。
「羨ましいな」
犬飼は独りごちた。
「どうした?」
先を歩く貝塚が振り返る。
「いや、なんでもない」
「人生は一度だ。後悔するなよ犬飼」
「ああ、わかってるよ」
貝塚という男、3年前にどこかのパーティ会場で出会ったのだが、パーティの雰囲気に似合わず厭世的な態度で参加して、皆がこぞって主催側の議員と挨拶するのを尻目に背後でワインを飲んでいた。
気になって話しかけてみると、なんと同じ高校の出身だった。学年は違うが同年代。すぐに気が合った。犬飼も会をそこそこに切り上げ、二人で飲みに行った。その晩は朝まで飲み明かしてしまい、会社を休んでしまった。その時からちょくちょく飲みに行ったりするようになった。
世の中を達観したところがあり、それでいて実力はピカイチ。昔の教授然としたところは一切なく、むしろSNSやメディアを使いこなし、活動には精力的だった。女性ファンまでいるらしいという噂。しかし、本心はどこにるのか、犬飼もまだわからないことが多い。
「おお、ここだ」
貝塚が店を指さす。
「麺屋ねむ瑠」とあった。
二人が入ろうとすると、がやがやと扉が開き、学生が出てきた。
「繁盛してるな」
「ああ。そうなんだ。俺も学生から教えてもらった」
店に入ると食券機がある。
濃い目の烏賊煮干しラーメンか、あっさり系の赤鶏と蛤のラーメンかの2種類がグランドメニューのようだ。
「俺は蛤派だ」
貝塚はさっさと食券を買って空いてる席に向かう。
犬飼も貝塚と同じく淡麗を押し、更にチャーシューをトッピングした。
「ふん、チャーシューは基本だよ明智くん」
「太るぞ。もういい歳だから」
貝塚に向かって言うと現実的な答えが返って来た。さすが学者だと妙に納得した。
店内はほぼ満席。逆に13時を過ぎて良かったかもしれない。
チャッチャッチャッ♪
チャッチャッチャッ♪♬
小気味良い湯切り音が聞こえてくる。
お待たせしました。
貝塚と犬飼の前に丼が着弾した。
「ほう!これは美しいクリエイティブ。うまそうだ」
思はず声が漏れる。
「だろう」
得意げな顔の貝塚。
スッキリ淡麗醤油スープ。犬飼の好きなタイプのスープだ。
ズズ。
犬飼はスープを恐る恐る啜る。
スッキリ系の醤油スープ。魚介の味わいが優しい。そして、チャーシューは肩ロースか。花びらのように沢山あるビジュアルが見目鮮やかだ。
麺はどうだ?
ズズズズ、ズルズルッ、ズルズルッー♬
「むう。柔らかいが芯はある。ストレート麺が淡麗醤油スープに合う。あっという間に終わってしまいそうだ」
ズルズルッ、ズルズルッー♬
ズルズルッ、ズルズルッー♬♬
ズズ、ズズズズー♬♬♬
ふぅ。やはりあっさり完食だな。横を見ると、隣の貝塚も既に食べ終わっていた。
貝塚と犬飼は器をカウンターの上にあげ、席を立った。
店を出た二人。じんわり額に汗をかいている。
「また連絡させてもらう。今日は忙しいところありがとう。取材費用はまとめて振り込むよ」
「ああ」
「このプロジェクトは、社内の重大プロジェクトだろ?」
「ああ」
「成功させて、そしたら一区切りつくんじゃないか? 仕事というか、会社に」
「ああ」
「相談乗るぜ、犬飼」
やはり貝塚は鋭い。なんとなく、このプロジェクトが終わったら、犬飼は長年勤めた会社を辞めるような気分になっていた。それを貝塚に見事に指摘された。
「それじゃな」
貝塚は軽く手を上げて大学に戻っていく。
「もう少しだけ、迷わせてくれよ」
犬飼は貝塚には聞こえない大きさで呟いた。
「さてと、スープはアッサリしていたし、もう一軒はしごするか。何せ人生は一回だからな。後悔しないことが重要だ!」
犬飼は清々しい気持ちで本郷通りを緩やかに南下して行った。確かもう少し行ったところに気になっているラーメン屋があったはずだ。
携帯のメッセージ音が鳴った。
貝塚かからだった。どうしたのだろうか。忘れ物か?
「まさか二軒目に行かないよな。太るぞ。思ってるほど若くないからな」
「なんて鋭い奴だ。エスパーか!」
犬飼は携帯をしまって笑いが込み上げてきた。
「人生は一回だけ、か」
その時再び風が吹き、犬飼の首筋を、涼やかに通り抜けて行った。
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麺屋 ねむ瑠東京都文京区本郷4-3-2
https://tabelog.com/tokyo/
A1310/A131004/13186981/