平泉雪成は御茶ノ水駅を降りた。
「もしかしたら、迷いは晴れるかもしれないよ」
昨日久しぶりに大学時代の教授に町でばったり出会った。学生時代平泉は名門大学の法学部に通っていた。
その後教授に出会い、そのまま法科大学院へ進んだ。そして、司法試験に受かり、日系の大手弁護士事務所に入った。
弁護士になって10数年。まもなく36歳。仕事は激務だが、ある程度自分の裁量で仕事をこなすことができてきている。顧客の信頼も厚い。
エリート街道まっしぐら、絵に描いたように順調なキャリア。平泉は日頃初めて会う人たちから良く言われる。唯一の課題は恋人がいないこと。しかし、出会いがないわけでもない。適当にデートする相手には困らない。
しかし、平泉は今の生活に虚しさを感じていた。
あの日、法学部に進むと決めた日。おそらくあそこから自分の人生は見えなくなってしまったのだ。
昨日教授に町でばったり会って、時間が少しあるというので近くの喫茶店に入った。
静かな店で、店に入るとコーヒーの良い香りが漂っていた。平泉はそれだけで一日得したような気分になった。
教授と席に着くと、お互いブレンドコーヒーを頼んだ。
「元気かね平泉くん」
「おかげさまで。仕事も順調です。教授は?」
「うん、僕も元気だよ。来年は学部長になることが決まったよ」
「それはおめでとうございます」
「ありがとう」
そこにブレンドコーヒーが運ばれて来た。鼻腔をくすぐるように香ばしく甘い匂いが漂う。店内に入ってすぐ感じたのはこの匂いだ。
二人とも表面が美しく輝くコーヒーを眺め、唇に近づける。恐る恐る口の中にコーヒーを流し込む。まるで蘭の園に入ったかのような甘い匂いが脳まで突き抜け、幸せを感じる二人。
「これは…」
「うまいねこれは」
二人は声を合わせた。そして、目を配せて笑った。
「本当に美味しいコーヒーだ。ここは通わないと」
「ですね。あれ、何の話をしていたんでしたっけね」
「はは。忘れてしまうほどのうまさだ。私が学部長になるという話だったね」
「そうでした。さすがです。僕も鼻が高いです」
「はは、まぁそれはさておき、君は楽しんでいるかね?」
「え?」
「楽しんで仕事をしているかね?」
「ええ。まぁ。忙しいですけど」
「そうか、ならいいんだ」
「なぜですか?」
「表情に苦悩が浮かんでいるようだからな」
昔から教授は鋭い。
「はは。一瞬で見抜かないでくださいよ」
「大学院行きを勧めたのは私だからね。多少の責任がある」
「いや、そこまでは。まぁキャリアはとても順調です。職場で問題も抱えていません」
「そうか。結婚は?」
「していません」
「相手はいるのかね?」
「いえ、特には」
「そうか」
二人に沈黙が続く。
「君、もしかして」
「え?」
教授の表情が曇る。
「まだ諦めていないのか?」
「誰を?」
「どちらもだ」
「な、何を、そんな…」
平泉はおどけて見せるが、教授は無表情のまま。やがて沈黙に耐えきれなくなる平泉。
「やはり、そういうことなのでしょうか…。自分でもわからないんです。でも、仕事が順調で、特にこの先も順調に進みそうな気がして」
「それで?」
「でも、それでいいのかと。というより、自分は何をしたかったのかと、最近よく考えます」
「なるほど。ま、暇だからだろう。気のせいだよ。はっはっは。もっと仕事をしたらいい」
「ですよね! はっはっは」
平泉は教授に笑いかけたが、教授は自分から言ったくせに全く笑わない。
「やはりな」
「え?」
「もしかしたら、ピアノ諦められないのか」
平泉は固まった。
「だろうと思ったよ。後悔しているんだろ、あの時大学院に進んだ時のことを」
「い、いや、そんな、今更。もう36ですよ」
「まだ40前だ。人生折り返してもいない」
言葉が出てこない平泉。教授は平泉を見つめる。
「すまない、君を悩ませて」
教授は頭を下げた。
「や、やめてください。教授は何も悪くないんですから。悪いのはこんな思いをさせた自分です。煮え切らない自分です」
「一度、立ち止まったほうが良いのかもしれん。まだ十分やり直せる」
「今更無理ですよピアノは。もう辞めてから20年も経ってる」
「続けてるんだろ、自分では」
図星だった。平泉はピアノの練習を続けていた。クラシックのあるコンクールで高校生の時優勝したりもしていた。でもプロになれるのはほんの一握り。音大に進むことも考えたが、成績も悪くなかった平泉は、結局一般の大学に入った。
かなり大きな決断だったが、きっとすぐに忘れられる。そう思ったのだった。
すぐに忘れられる。大学の試験に受かったあの日、あいつはドイツに旅立った。高校生の時、何度も同じコンクールで顔を合わせたヴァイオリニスト、嵯峨野飛鳥。彼女はどうしているだろう。いや、時折日本に帰国してコンサートをしているのはネットで知っていた。
「教授…」
「なんだか、久しぶりに会ったのに君を惑わせてすまない。しかし、言わずには入れない性分でね。でも、これもいい機会なのかもしれない。何も弁護士を辞める必要もない。ピアノは趣味で続ける道もあるだろう。その迷いが断ち切れた時、君はもう一回り大人になるだろう。私は乗り越えられると信じているよ。また話したくなったら私のところに来るといい」
そう言うと、教授は名刺を取り出し、机に置いた。そして、会計伝票を取り、さっと立ち上がった。
「ではな。今日はこれで。また会おう」
教授は風のように去った。
まるで雷に撃たれた後のように平泉は動けなかった。コーヒーのカップは空だった。
「君は留学しないの? 雪成くん」
「え、あぁ、うん。大学は普通の方に行こうと思って」
「そうなの…残念だわ」
飛鳥は目を伏せた。とてもがっかりした顔をした。
「自分は取り返しのつかないことをしたような気がした」
「ねぇ、ちょっと伴奏してよ」
「ああ。何? カッチーニだっけ」
「ええ。明日の入賞者コンサートのアンコール曲」
「うん。じゃあ、いくよ」
平泉はカッチーニのアヴェ・マリアの前奏を弾き始めた。飛鳥の優雅で伸びやかな旋律が滑り出す。何とも言えない哀愁を纏って飛鳥の音が流れていく。練習室を満たす飛鳥のヴァイオリン。自分の伴奏が、地上のように彼女の音を支え、そこから力強く羽ばたく鳥のようなヴァイオリン。マリアの祝福が上から降ってくる。恍惚感に浸る飛鳥。その艶やかな顔や艶やかな髪から目が離せない。
弾き終わると、その余韻に二人は浸る。練習だったが最高の演奏だった。
「ねぇ、私、明日はあなたに伴奏してもらう。こんなに気持ちいいセッション、今までなかった」
「ああ、いいよ。もともと決まってた金山くんに悪いな」
「私から言っておくわ。ねぇ雪成」
急に下の名前で呼ばれてびっくりする平泉。
「ん?」
「あなたとずっと演奏したかったのよ私。中学生の頃から」
「え…」
「あなた、昔から素敵だった。私だけが知っていたと思ってた」
「そ、それは。俺の方だよ。俺だって知ってたよ中学生の頃の、あの浜松のコンクール」
飛鳥はヴァイオリンを置いて、平泉を抱きしめた。
「両思いね」
耳元で囁く飛鳥。平泉は、幸せとはこう言うことを言うんだと、その時悟った。
「でも、辞めちゃうのね…」
「う、うん…」
向き直る飛鳥。彼女は涙を流していた。平泉はどうしていいかわからないまま黙っていた。
「じゃ明日ね」
飛鳥はヴァイオリンを片付けて帰っていった。
翌日、彼女は結局金山を伴走者に選んだ。僕には朝一言それを告げたきり、その日が終わるまで一度も話すこともなく、終演後「またね」と最後に言って帰っていった。
それ以来彼女と会っていない。そうだ。僕は彼女を忘れるために、勉強に、今の仕事に没頭したのだった。
平泉は喫茶店を出ると、水道橋駅に向かって歩いた。そこからJRに乗るつもりだった。しかし、何だかむしゃくしゃしていた。
途中に大きな看板があった。
『麺屋33』とあった。
「ラーメン屋か」
平泉は独りごちた。
平泉はガラッとドアを開け中に入った。空いているカウンター席に座り、シンプルに中華蕎麦塩味を頼んだ。
静かな店内に響く、他人の麺を啜る音。大鍋で湯が沸騰する音。店主の静かな作業音。なかなか良い店に入ったと感じた。
しばらくすると丼が出された。
何と言う美しいビジュアル。先程まで沈んでいた平泉の意識は一瞬消し飛んで、目の前のラーメン丼の美しさに心が奪われた。
たまらずズズっとスープを啜る平泉。
「こ、これはうまい」
魚介のほっとするような出汁が染み渡る。しかし、後から来るインパクトの強さ。意外とコッテリしている。これがまた満足感を引き立てる。
平泉は麺を啜った。
スパッとしたストレート麺。このスープによく合う硬さ。ズルズルと思い切り吸い込む。このスープと麺のコラボはまるで自分と飛鳥のデュオのようではないか。そんなくだらない考えすら浮かんで苦笑する平泉。
平泉はあっという間に食べ切ってしまった。
ごくごくと置いてあった水を飲み干す。
店の中に置いてあったチラシに目がいく平泉。
『金山彰ピアノリサイタル』
まじかよ…あいつピアニストに。平泉は悔しさに苛まれた。
「二週間後か…」
平泉はそのチラシを鞄にねじ込み店を出た。
少し雲行きが怪しい。一雨来るだろうか…平泉の頭にショパンの雨だれの旋律が響いていた。
***
麺屋33
03-3259-5135
東京都千代田区神田神保町1-44 竹本ビル 1F
https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13097807/