僕の部屋には何もなかった。
部屋として、生活の場として機能するためのものはもちろん揃っている。
だけど、そのどれもが僕を慰めるのには役立たない。
鼻をかんでは投げるティッシュがゴミ箱の周りに散乱して、帰ってきて脱ぎ捨てた春物のジャケットが床でくったりと寝そべるように落ちている。
テーブルに置いたスマホは一度も震えないし、カーテンを開けたままの窓からも光は差し込まない。
暗いのに点ける気も起きない間接照明も、もしお腹が空いても何も入っていない冷蔵庫も、深く体を預けて体温が伝わっているはずのソファも、全部が冷え冷えとして感じる。
「頼りはお前だけだよ・・・。」
ふらふらと歩いてベッドに倒れ込む。
朝、体温を逃がすためにめくったままの掛け布団に足を乗せて、靴下を脱がなくちゃとか丸くなって布団を引っ張ろうとか思うけど、動けない。
枕に涙がこぼれて、すぐに冷たくなる。
気持ち悪いけど、頭をずらす気にもならない。
こんなになるか?
自分でも信じられない。
目を閉じる。
今日大野さんと並んで見た景色を思い出す。
一瞬だけ和んで、すぐに苦しくなる。
「眠りたい・・・。」
眠ってしまいたい。
そして、朝になったらすべてを忘れているのだ。
何もなかったように、自分の生活を続けなくちゃいけない。
それしかない。
「宇都宮のあとすぐこれって大丈夫ですか?ちょっと詰め過ぎじゃない?」
「でも、こっちは日帰りでしょ?帰りが遅くなり過ぎないように調整すればさ。」
「ふーん。まあ、いいですけど。じゃあ、こっちは一週間くらいは開けましょ。」
松本と打ち合わせをしている。
松本がタブレットに指を滑らせて表示したのは3つ目のプロジェクトだ。
「それさー、写真がめちゃくちゃ小さいんだよね。だから分かりやすくインパクトが欲しいのよ。」
「どのくらい?テクスチャーとかは分からない感じですよね?」
「絶対わからない。」
「んー、じゃあ、これは俺の未使用のストックから探してみるってどうですか?そしたら出かけなくても過去の取材ノートで書けるし。」
松本が少し考えて言う。
一度の出張で何千何万と写真を撮るのに、使うのはせいぜい4〜5枚。
だけど、捨ててしまう写真はほとんど無いそうだから、日の目を見る写真が掘り出されるのはいいことだ。
「なんかありそう?」
「ちょっと見てみます。サムネイルで目立ってたらいいですもんね。明日の夜には行く必要があるかどうか連絡します。」
「あー、急がなくていいよ?それ来月末の締切だから。」
「や、明日昼間なにも無いんでやっちゃいます。」
「そっか、サンキュ。」
首をかしげるようにして僕の言葉に応じた松本が、ふと眉をしかめる。
「ってか、翔さん、なんかありました?」
「な、なんかって?」
「なんか、・・・泣きました?」
まぶたの腫れは解消されたと思っていたのに。
なんでバレたんだろう。
「泣きましたよね?どっか飲みに行きますか?聞くんで。」
こんな時の松本はグイグイ来る。
でも、僕はそんなグイグイ松本に何度も助けられているから、今度も本音を言うと頼りたいと思っている。
「翔さんのおごりになるかも知れないけど、僕はいいですよ?」
「ははは!そりゃそうだろうよ。俺のおごりなら。」
「ふはは。」
「いや、まあ、話す話さないはあれだけど、飲みには付き合ってほしいかも。」
「話す。話す。話してスッキリしちゃいましょ。じゃあ、移動!」
歯を見せてニッコリ笑う松本が、もう頼もしく見えた。
(つづく)