「またもやご迷惑を・・・。」

 
なんとか呼吸を整えつつ僕は大野さんに頭を下げる。


「迷惑なんかじゃないですから。もっとゆっくり息して?」

「・・・はい。」

 


大野さんに支えられてしゃがんだ僕は、肺に呼吸を取り込むために背筋を伸ばそうとする。
でもやっぱりまだ上手く行かない。
吐き気は去ったけど、まだ少し目眩が残っている。
汗をたくさんかいたからジャケットを脱ぐと体を冷やしてしまうだろうか。
でも暑いんだよな。


「これ脱げます?」

大野さんが僕のジャケットに手をかける。

 


「腕だけ抜いて?羽織るくらいにしましょう。」


大野さんって・・・心が読めるとか・・ないよな。

そんなことを思いながら、言われたままにのそのそとジャケットから腕を抜く。
籠もっていた熱が逃されて、姿勢も楽になったせいで呼吸も少し楽になる。
 

脱いだジャケットを背中にそっと大野さんがかけてくれる。



「櫻井さん、家まで送ります。」

「あ、いや・・・。」


松本は事情を一番よく知っているし、キャンセルしても、というかむしろ、知らせれば帰れと言われるだろう。
慌ててここまで来て送ると言うかもしれない。

松本に来てもらおうか。
大野さんに迷惑をかけたくない。


「あの、友達が近くにいるんで。そいつ呼びます。」

「え・・・。ああ。そうですか。んじゃあ、来るまで。」

「毎度申し訳ない。」


声がかすれて、なんだか泣いているみたいな声になってしまった。


「ううん。大丈夫ですよ。仕事終わって飯でも食って帰るところだったんで。」


大野さんの出す声が優しくて、僕は本当に泣きたくなってくる。
こんな会い方ばかりだ。
たまにはかっこいい自分を見せたいのに。


「仕事、忙しいんですか?」

「ん"ん"っ。いえ。でも写真集からこっちオファーが増えて。」

 


喉をクリアにして、せめて声だけはいつも通りにと思ったけど、やっぱり少しかすれてしまう。


「ああ!あれ最高でした!行ってみたいとこ多すぎて。」

「・・・ははは。ありがとうございます。」

「雑誌に載ってた分も全部読み直してるんでまだ全部は終わってないんですけど、あの櫻井さんが壁の手触りをメインに書いてたとこ、あそこはビジュアルも含めて一番のお気に入りです。」

「・・・聚楽壁(じゅらくへき)かな。」

 


あの回は壁を撫でている僕が写った写真があったような。


「そう!それです!京都ですよね。京都は若い頃しばらく住んでたんですけど、壁のこと意識して暮らしてなかったから。」

「住んでたんですか?」

「ふふ。ちょっとした仕事で。ずっと昔の話です。」

「へえ。」

「あの壁に触れてる櫻井さんの表情が気持ちよさそうで。ふふ。」


ふと僕の背中に添えられたままの大野さんの手が上下に優しく動き出す。

呼吸が苦しかったことを忘れていた自分に気づく。

なんとなく体全体に残る痛みを、その手の平が癒やしていくような感覚。



「俺、櫻井さんの文章は読みやすいだけじゃなくて、建築に対する優しさとか愛情とか、たまに嫉妬心とか、そういうの全部込められてる感じで、本当に好きです。あんまり国語は得意じゃなかったけど、俺でもちゃんとそういうの読み取れます。」


饒舌だけど穏やかな語り口。
大野さんは僕の周りにはいままでいなかった感じの人だ。
国語が得意じゃないとか言って、気持ちを言葉にするのがとても上手いと思う。


「はは。めっちゃ嬉しいです。専門家じゃない人にこそ届けたいって思ってるから。」

「届いてます。ふふ。」


笑顔が可愛らしくて、つい見すぎてしまう。

なんとなく、あのピンクのチューリップが大野さんのイメージと重なる。

可愛らしくて凛として。


 

「お、俺、だいぶ落ち着いたんでちょっと電話を。」

 

「あ、はい。」



大野さんは僕からは離れないままで少し体の角度を変える。
その少しの動きだけで、僕にプライバシーを与えてくれたのだ。
人間力が高い。
そう思った。

スマホには松本からの着信があった。
待ち合わせに遅れているのだから当然だ。


「あ、松本。悪い。ちょっと急に具合悪くなって。 ・・・・あ、いやすぐ近くまで来てて。 えと、牛丼屋の前 ・・・・もう平気なんだけど・・・・ 急がなくていいよ。 ・・・・はい、ここにいます。 ・・・あの、 ・・・あ、切れた。」


松本は慌てた声を出して、多分もう走り出している。

2分もかからずここに来るだろう。



「大野さん、今度ちゃんとお礼させてください。」

「お礼はいいです。でも今度写真集にサインしてください。」

「も、もちろんです。でもお礼もしたいです。」

「ふふ。櫻井さん頑固だって聞いてたけど。」

「頑固です。お礼は必ずさせてもらいます。」

「ふふふ。あ、立ちますか?」

 


大野さんが僕の背中に添えられていない方の手を差し出してくれる。

きれいな長い指。
僕より弱そうに見えるけど、さっき僕を持ち上げて運んでくれたのだ。


「ん?」

大野さんが僕を覗き込む。

「あ、いや。」

 


僕が大野さんの手を取ると、ギュッと引き上げられる。
僕なんてなんなく持ち上げられる筋力の持ち主なのだ。


「翔さん!」

僕を見つけて、松本が駆け寄る。


「大丈夫ですか?」

「松本。悪い。」

「悪くないけど、大丈夫なんですか?」

「うん。もう平気。あ、こちら大野さん。俺の救世主。」

「え?」

「俺を助けてくれた人ってこと。3回目。」

「・・・なんか分かんないけど、お世話になりました。」


松本が大野さんに頭を下げて、代わって僕の体を支えようとする。

大野さんは松本がしっかり僕の横に来てから自分の手を離す。

僕にはそれがすごく寂しく感じられた。
それを選んだのは僕なのに。


「送ります。」

松本が僕に言う。


「じゃあ、櫻井さん、俺はこれで。家に着いて落ち着いたらでいいので一言お知らせ下さい。」

「あ、はい。連絡します。絶対。」

「ふふ。はい。待ってます。」


松本に支えられながら、去っていく大野さんの背中を見ていた。

 

 

(つづく)