「ごめん、ミーティングが長引いて。」
『大丈夫だよ。俺らは仕事して待ってるから。』
「ん。でも悪いけどリスケさせて?俺ちょっと疲れちゃってて。」
『体調悪いの?』
「悪くなりそうな予感がしてる。」
カズはなんとなくだけど僕の事情を知っている。
長く休んで自分と向き合った後、僕は自分の体調と心の状態に敏感になった。
こうした急な予定変更もカズには何度か許してもらっている。
『んじゃ、帰って休みな。こっちは俺に任せてさ。』
「悪い。よろしく伝えて。」
駅前ロータリーでスマホ歩きをしているサラリーマンとぶつかりそうになるのを避けて、更に端による。
『翔ちゃん具合悪いんだって。家帰って休むからごめんって。』
カズが向こうで大野さんに伝えているのが聞こえる。
『なにか必要なものとかないかって。』
「大丈夫。ありがと。ドタキャンなんて申し訳ない。カズ一人ならともかく。」
『なんもいらないって。ドタキャンごめんって。』
「ははは。もっとちゃんと伝えてよ。」
『だーいじょぶ。伝わってるよ。ね、大野さん。ほら、伝わってるって。』
「ははは!」
カズと大野さんの関係性が少しわかる気がする。
同時に少し体が楽になった感覚もある。
スーパーで食料だけ入手して帰ろうと考える。
「んじゃ、またね。」
『すぐね。じゃないとまたこの人うるさいから。』
「はは。うん。連絡してよ。」
『するする。気をつけて帰ってね。』
僕は電話を切ってから少しだけ大野さんのことを考えた。
申し訳なかったな。
声も聞かずにカズを通してのみのドタキャンになってしまった。
次が早く来ますようにと願うのは、彼のためなのか自分のためなのかが分からない。
でも、きっとすぐに次の機会は来るだろうと思った。
「なんだろ。ここの感じは今までに無いですね。」
「そうだね。なんか肌に感じる空気が違うんだよな。歴史を知ってるからってのもあるだろうけど。」
「ですね。壁の穴とかちょっと怖いくらいですね。向き合い方考えされられる。」
「お?さすが俺にくっついてあちこち行ってるだけはある物言いだね。」
「いつも翔さんの感覚でファインダー覗いてますもん。」
「そういうことだよね。」
僕は建物を評論・紹介する中で、歴史や見た目だけではなく、僕自身が体感した雰囲気のようなものをできるだけ伝えるようにしている。
先入観をもって見てほしいわけではないけど、僕という人間が書く意味を持たせたいという気持ちからが大きい。
それに付き合っているカメラマンの松本は、僕と仕事をし始めてもう随分長い。
僕が休んでいる間はあちこち忙しくしていたようだが、復帰してからは8割ほどの時間を僕に預けてくれている。
今回は近いから日帰りだけど、関東を出るときには数泊共にすることにもなる。
「翔さんの顔色が最近いい気がします。」
「そう?」
「んー、季節も変わったけど、やっぱり表情が元気になったような。」
「そりゃ良かった。ってか、気にかけてくれてんの嬉しいわ。サンキュ。」
「俺は仕事の心配してるだけですよ。」
「ははは。照れんなよ。」
「ふはは。ちょっとそこ立って。」
「はいよ。」
連載している建築雑誌の記事のための取材は、毎月一緒に来ている。
必ず一枚は僕も写ってくれと編集者に言われているので、良さそうなところで松本からの合図が入る。
自分で言うのもなんだけど、なかなかいい写真が上がってくる。
そうか、この写真も大野さんが見ることになるんだな。
ふと思いついて、照れのような緊張のような感覚を覚える。
読者、それもファンだと言ってくれている人と実際会ったのは、大野さんが初めてだった。
編集関係で声をかけられることはあっても、純粋な読者というのがいなかった。
「なにニヤけてんですか?」
「は?」
「いや、今すごい緩んでましたよ?珍しい。」
「あー、いや、最近僕の記事のファンだって言う人に会ってさ。そんなの初めてだったから。」
「へえ。翔さんイケメンだしなぁ。」
「そ、それは関係ないでしょ。」
「ふはは。イケメンは否定しないスタイル。」
「ははは!やめて?」
「じゃあニヤけた顔も撮っときましょ。」
「こらこら。」
僕らは笑って、もう少し大野さんの話をした。
そうやって僕の記事が読まれ、松本の写真が観られていることを2人で喜んだ。
「来週の始めに特集の写真選んで送るんだけど、一緒に選ぶ?」
「任せます。俺この間の千枚近くなったやつまとめるんで。」
「そっか、そっちも再来週だもんね。」
「微妙に翔さん入ってるやつ足りない気がしてるんですけどね。」
「俺のビジュアル写真集じゃないんだからいいんだよ。」
「ファンは求めてるでしょ。」
松本がニヤリと僕を見て、僕はそれを笑って受け流す。
また大野さんを思い出す。
「急激に忙しくなるから気をつけてくださいよ?」
「うん。ありがと。」
「まだ延期もできますからね?」
「はは。うん。」
松本に忠告された通り、それから2週間は寝る時間が激減するぼどのペースで仕事をこなすことになってしまった。
やりがいはある。
充実している。
だけど、やっぱりプレッシャーは感じていたし、睡眠不足も良くはなかった。
そんな中、編集社に向かう横断歩道。
時間帯もあって少し動けば腕がぶつかり合いそうなくらいの人混みだった。
僕は急な目眩で視界を失う。
ふらついて、進むにも戻るにも方向感覚をつかめない。
やばい。
そう思うと、息も苦しくなってくる。
やばい。
僕の周りから人がいなくなる。
皆、早足で渡って行ってしまったのだろう。
誰か...。
「櫻井さん!掴まって!」
フワッと体が浮いたようになる。
誰かが僕を脇から持ち上げるように支えて歩いてくれている。
僕はその人にしがみつくようにして足を動かすけれど、多分まるで役には立っていない。
なにか言いたいけれど声が出ない。
「大丈夫。分かってます。座って?」
僕は言われるままにどうにか突っ張らせていた足の力を抜いて座る。
どうやらベンチのようなものに座ったようだ。
「ゆっくり息してください。ゆっくり。」
そう言いながら優しく背中を撫でてくれる。
声に聞き覚えがあるけど、苦しくて集中できない。
「そう。ゆっくり。大丈夫ですよ。」
僕はなんだかわからないけれどとても安心していた。
もう大丈夫。
あとは待つだけだ。
横で手本を示すようなゆっくりとした呼吸が聞こえる。
背中に添えられた手が温かくて気持ちいい。
密着した体が守られているようで。
まず呼吸が整い始めて、目眩が治まる。
頭をもたせかけていたことに気がついて、起こそうとすると、
「まだ。」
そう言って、頭をそっと抑えられる。
「目が開けられてからでいいですから。」
「ありがとう。」
声が出て、まずお礼を言う。
「偶然だけど、本当に良かったです。」
「あの・・・。」
「大野です。カズの同僚の。」
びっくりして頭をグインと持ち上げてしまう。
途端、また目眩がして目を閉じる。
横から頭を抱えてもらったのが分かる。
「すいません・・・。」
「ふふ。大丈夫です。しばらくじっとしててください。」
「はい・・・。」
恥ずかしいけど、安心感がすごい。
今までのパニックアタックではありえない素早い回復も感じている。
そもそも回復してきているのか、大野さんの対応が上手いのか。
僕は大野さんに甘えることにして、できる限りの体の緊張を解くことに集中した。
(つづく)