「潤、今日って遅い日だっけ?」
「ああ、そうだ。今日いつもより早く帰れるんだった。どした?」
「ん、ちょっと話したいことあって。美味いもん作って、 」
「酒・・・はないほうがいいか?」
潤の瞳が少しだけ翳る。
「あっていいよ。話し終わったらゆっくり飲もうよ。」
「・・・おう。んじゃ、なんか買ってくる。」
「頼む。なんか食べたいものある?」
「リクエストしていいの?」
潤の笑顔が穏やかになる。
緊張させてしまった。
でも、僕が伝えたいことは潤を不幸にする内容ではない。
「なければ潤が好きなもの俺が考えるだけだよ。」
「えー、じゃあ智に考えてもらうー。」
ニンと歯を見せて笑う潤に僕も微笑んで見せる。
「任せろ。幸せにする。」
「っな、なんだよ朝から。誘ってる?」
「ふふ。愛してるよ、潤。」
僕は潤に小さなキスをする。
「・・・・。俺もだけど。なによ?」
僕はカバンを持つと、玄関に向かう。
背後から潤が声を上げる。
「なんなんだよっ?」
「ふふふ。行ってきます。お前も遅れんなよ?」
「俺も今出るし。待って。」
エレベーターでまたキスをした。
潤からだった。
潤は一瞬僕を伺うような目をしたけど、すぐに微笑む。
「防犯カメラに映っちゃった。ふはは。」
「ふふふ。どうせ誰も見ねえよ。」
「うん。だからもう一回?」
「ふふふ。夜まで取っといて?」
じゃあ、と言って潤は僕の手を握る。
僕もキュッと握り返す。
3階を過ぎたらもうほとんど誰も乗ってこない。
低いところを行ったり来たりしているエレベーターが他に1基あるのだ。
横顔から飛び出したまつげを見つめる。
これが僕の幸せの姿だと、ふと思う。
今夜潤にすべて話したら、もしかしたらもう翔ちゃんとの世界に行くことはなくなるかもしれない。
ほんの少しだけ寂しい気もするけど、それでいい。
この世界で幸せにしている翔ちゃんと偶然またどこかで会って、そのときに微笑える僕でいられれば。
とうてい信じられないようなことが僕の身に起こった。
自分でも現実と夢との区別がつかなくて、理解するまでたくさん苦しんだ。
苦しめていた相手のことも痛いくらいに考えた。
つまり、こういうことだったのだろうと今は思う。
翔ちゃんは僕の人生にとって決していらない存在ではなかった。
となりにいなくても。
ただこの青空の下で僕らが一緒に存在することが大事だって、僕は思い出さなくてはいけなかった。
意識下に追いやっていた大切な思い出とか、一人しか想ってはいけないっていう思い込みとか、僕の心は潤が入っていたらもういっぱいいっぱいなんだとか。
解放したり溶かしたり、この数ヶ月はそういうことをするためのものだったのだ。
翔ちゃんと暮らしても潤が大切だった。
翔ちゃんを大切にしても潤を愛している。
そういうことなのだ。
少し泣くかな。
全部話したら。
「どした?」
「ん?ううん。空青いねー。」
「んー。桜のピンクと茶色が最高に映えるよね。キラキラしてる。」
「ふふふ。」
僕には潤が輝いて見える。
空は広くて、見上げてると迷子になりそうな不安定さを感じることもあるけど。
どんなに迷いそうな時でも潤がこうして光を放つ限り僕はここに戻ってくる。
潤の隣に。
なんどでも、なんどでも。
潤が僕を振り向いて、優しく微笑んだ。
(おわり)