「それに、もっと観たくなりました。」
潤は少しだけテーブルに乗り出して言った。
さっき注文したばかりのコーヒーを、両腕で包み込むような格好になる。
なぜだか、そのコーヒーが羨ましいような気持ちになる。
「聞いてます?」
「ああ、うん。」
「どこかにもっと展示されてますか?」
「ない。」
「・・・そっか。」
わかり易くがっかりしている潤が、腕の間にあったコーヒーカップを弄ぶ。
男らしく大きいのにキレイな手だ。
「描いてないってことですか?」
「ん、いや。あるけど、展示はされてない。」
僕は無理に潤の手から視線をもぎ取って応えた。
「そうなんだ・・・。」
潤はいい具合に思慮深くもあるようだ。
展示されていないものも見せてくれと言われはしないかと少し心配していたけど、そんな様子は少しもなかった。
「増やしたいとは言われているんだけどね。」
「それは?」
「館長の翔子さんにせっつかれてはいるんだ。」
「へえ。」
潤の目が輝き出す。
「でも、まだ描いてはいない。」
「描いてあるのは駄目なんですか?」
「駄目って言うか、まあ、見せるために描いてないって言うか。」
「そっか。描くときの気構えみたいなのもあるんですね。」
「そうだね。あ、でも、翔子さんに見せるものは特にかな。」
「へえ・・・。俺はいくらでも待てるな。」
また笑顔になった潤を見て、僕は創作意欲が湧いてくるのを感じていた。
「いくらでも?」
「うん。いくらでも待てます。それまで、またあいつらと会話すればいい。」
潤の発した『あいつら』という響きが、なんだか好きだった。
「あ、すいません。大野さんの作品をあいつら、なんて。」
「ふふ。いや、逆に今いい響きだなって思ってたとこ。」
僕は潤に微笑んだ。
心から、微笑んだ。
「あー、明日の仕事休みてぇ!」
別れ際、潤が大げさに片目をギュッとつぶって悶た。
「ふふふ。」
この2時間ほどで、潤が甘えん坊の可愛らしい性格だということが分かった。
素直で、正直で、でもしっかりと気を使える男だった。
僕は、潤に毎日美術館にいることを知られたのを嫌だと思わなかった。
それは、僕にとっては貴重な相手ということになる。
人間関係なんて、大抵は面倒くさい。
大切だと思っている相手でも、今日どこにいるかなんて知られたくないものだ。
潤はむしろ、次はいつ現れるかと少し楽しみに思っている。
あの日奪われた目線と心は、潤を知った今でも同じように奪われたままだった。
「絶対、明後日また行きますから。」
潤は臆することなく僕をまっすぐに見つめて言った。
「おう。」
少し臆病になっているのは僕の方だった。
こんな気持ちは初めてだった。
「いますよね?」
「ん?」
「明後日。」
「ああ。うん。休館日以外はだいたい。」
潤は口角を目一杯上げて微笑んだ。
「よし。」
「よし。」
僕も微笑んで返す。
「話しかけてもいいですか?」
絵にだか、僕にだか分からなかった。
「お仕事中だから駄目?」
首を傾げる潤に危うくキュンとなる。
「いや、大丈夫。少しなら。」
「はい。じゃあ、短めに。」
本当に嬉しそうに言って、潤は会ったときと同じように手を差し出した。
僕はその手を取る。
「今日はありがとうございました。」
「うん。こちらこそ。」
「俺、今日眠れないかも。」
「え?ふふ。」
「手、洗わないかも。」
「はは。洗えって。」
潤は僕の言葉を受けて、いたずらっぽく微笑うと、手を離した。
「メチャメチャ幸せでした。じゃあ!」
爽やかに背を向けて去っていく。
僕は、しばらくそこから動けずにいた。
(つづく)