「元気にしてるかな・・・」
沈丁花の香りが鼻をくすぐって、貴方を思い出した僕は、ふっと空を見上げた。
人混みを離れてフラフラと入り込んだ路地には、真上じゃないと空が無い。
あらわになった首と顎が、まだ少し冷たい空気に触れて、僕は慌てて顔を下ろす。
「さみっ・・・」
ポケットに手を突っ込んで、肩をいからせて首を襟にうずめる。
こんなところにいても仕方がない。
この先の道が拓けているといいなと思いながら、僕は足を速めた。
〜〜〜
街の所々で、バレンタインの音楽が流れていた。
あの日貴方は、街ではないどこかへ行こうと僕を誘い出した。
断る理由なんてなかった。
貴方と過ごす時間は、全てが宝物のようにキラキラとしていて、僕はもっともっと欲しくて毎日そう願っていた。
「海はさみいよな。」
がに股の猫背で歩く貴方が僕を振り向いて言う。
先に立って歩いているくせに、向かう先は僕の車で、僕はいつもなんとなく愉快な気分になった。
「寒いっすね。」
どこだって一緒なら素敵だと思っていたけど、悟られないように同調した。
「ニノ、お前もちょっとは考えろよ。」
口を尖らせた貴方が抗議する。
「いや、自分が言い出したんでしょ。私は家が一番好きなんで、あとはどこでも一緒です。」
「つまんねえ奴だなー。」
「じゃあもう誘わないでくださいよ。」
心にもないことを言ってしまって瞬時に後悔した。
貴方の表情を伺う。
なんとも言えない、複雑な表情をしていた。
「ニノがいなかったら俺には誰もいないからな・・・」
とても寂しそうな声を出すので、僕は慌てて貴方の腕に猫パンチをお見舞いしながら言った。
「冗談ですよ。いいですよ、いつ誘ってくれても。なんなら毎日でも。」
「毎日は誘わねえよ。」
いつもの笑顔で貴方が笑うので、僕も声を上げて笑った。
「じゃ、川行こうぜ、川っ。」
「何川?」
「隅田川?」
「割りと街近いな。」
「でも人ゴミはないだろうよ。」
「まあ季節的にないでしょうね。」
貴方はニヤリと笑って、
「決まりだなっ。」
と僕の肩に腕を回した。
いつもの仕草、いつもの調子、いつものトキメキ。
僕は嬉しくて笑った。
「じゃあ車いらないっすね。」
「えー、もしかして電車乗るの?」
「なんすか。やなんすか?めっちゃ近いんだけどな。」
「・・・やだなー、だって電車は人が多いから。」
不満げな顔で僕を覗き込む。
そして、おねだりするときのアヒル口が後に続く。
「ニノちゃーん。車でいこうぜぇ。」
「・・・・」
「ね?ね?」
と言いながら貴方が僕のお腹をツンツンしてくる。
「はははははは・・・やめろ・・・わかっ・・た・・って」
「ほんと?ほんとにぃ?」
ツンツンツンツン。
「やー、やだー、くすぐったい!・・本当ですってば・・・」
突然つつくのをやめた貴方は、不真面目な凛々しい声を出して言った。
「ありがとう、二宮くん。」
無理強いしたなんて感じない笑顔だ。
「・・・・調子いいんだよなぁ・・・大体なんでそんなに人ゴミがいやなんですか。仕事もその内行けなくなりますよ。」
「ん・・・。仕事は仕方ない。与えられたものを1つ1つこなしていくために必要なら、人ゴミも耐えられるってもんだ。」
「・・・・」
貴方がカッコイイのはそういうところだった。
普段は決して言わないけれど、聞かれればサラッと言葉にできる。
貴方は自分の中のルールをとても大事にしている人で、僕はいつの間にか貴方の生き方を指標にして歩いていた。
「私の車の吐き出す排気ガスのことも少し考えてくれると、地球にも優しい男になれますよ。」
「だから俺は運転しないんだ。俺が車に乗るときはお前と出かけるときだけだろ。」
「だから、それほぼ毎日じゃないすか。」
「・・・飲むときは歩くだろ。」
「車で帰ってきてからね。」
横目で軽く睨んでやると、貴方はなんとも幸せそうに空を見上げていて、僕もつられて見上げたけれど何を見ているか分からなかった。
「何みてたんすか?」
「ん。あれ、ほっそい月があそこに。」
「ああ・・・」
「きれいだな。」
上向き加減の貴方の横顔のほうが僕には美しく見えたけれど、もちろんそれは言わなかった。
「ああいう月って何て呼ぶんですかね。」
「・・・さあな。難しいことは分かんねえや。」
言ってることに反して貴方の笑顔はとても優しくて、僕は思わずその頬に手を伸したくなる。
理屈じゃなくて、五感でものごとに反応する貴方がいつも羨ましかった。
なんて愛おしい。
いい加減、僕のものになっちゃえばいいのに。
とは言ったって、僕は一度だって貴方への気持ちを口にしたことはなかった。
いつか当たり前のように僕を求めてくれる日を、静かに待っていた。
「カズ」
貴方は気まぐれに僕をそう呼んだ。
僕はどんな風に呼ばれたって、貴方の声で呼ばれるのなら自分のことだと気づいた。
そしてそんな時は特別に、僕も貴方を下の名前で呼ぶことができた。
僕の呼び方には、ほんの少しだけ友情じゃないものが込められていたけど、貴方には聞こえなかっただろう。
だけど、貴方が返事をしてくれる度に、当たり前なのに、僕はキュンキュン感動していたんだ。
「カズ、ちょっとお願いがあるんだけど。」
「・・・怖いな。智がそういうこというときって怖いんだよな。」
「いや、これは普通のお願いだから安心してくれ。」
「あなたの普通は人とはちょっと違うから・・・」
「まあ、とりあえず聞いてくれ。」
といって、僕の腰を引き寄せる。
それって何の仕草なんだよ。
耳が熱くなったけど、乗り気じゃないフリをし続けた。
「カズよ。」
「・・・はい。」
「俺は恋をしたかもしれない。」
驚いて耳元で話していた貴方を振り返る。
「・・・へ?」
「へ、ではない。恋だ。」
とても照れくさそうな表情をしていて、いつもだったら可愛くて微笑んでしまうところなんだけど、これは笑えなかった。
「女の子・・・ですよね?」
「どんな質問だよ。」
「あ、いえ・・・」
「ふん。まあいい。そこでだね?」
「・・・・」
「・・・聞く気あるのかよ。コラ、カズっ。」
貴方は僕の腰を抱いたままで脇腹をくすぐってくる。
「ああっ・・!やだっ!あああああ・・分かった分かったからやめて!」
「聞くか。」
「・・・はい。嫌だけど・・・。」
「・・・まだ言うか。それにしてもお前のくすぐったがる声はちょっと色っぽ過ぎやしないか?聞いててちょっと恥ずかしくなるんだよな。」
そんなことを言われて恥ずかしかったのは僕の方で、今度こそ耳が赤くなっているのが自分でも分かった。
「じゃあもうくすぐるのやめてくれ・・・。」
思わず、恥ずかしさと悲しさが声に混じってしまった。
自分で聞いた自分の声は強烈に心に沁み込んで、僕は泣きそうになってしまった。
「なんだよ、カズ。なんで泣くんだよ。」
堪えたはずの涙が一粒頬を流れてしまって、貴方は心配そうに僕の背中に手をやって顔を覗き込んできた。
「ん・・・いや・・・」
「ん?どした。言ってみろ。」
貴方の声が優しくて、余計に切なくなる。
「くすぐられるのが嫌で泣いてるんじゃないもんな。」
「・・・・」
「なんか悪かったな。」
貴方は僕の背中をゆっくりとさすって、その手で頭をポンポンしてくれる。
「いいよ。俺のお願いはまた今度な。カズの方が深刻だ。」
貴方の手のひらが頭の上で心地よい重さで、僕は涙を拭いながらこのまま時間が止まればいいと真剣に祈った。
(つづく)