嵐 

 

 

電話では毎日話をしているけど、会えるのは久しぶりだった。

智くんは今年36歳になる年男で、これを機に彼の実力を余すことなく披露しようとばかりに、次々と仕事をこなしている。

 

マンションの部屋の前に立ってチャイムを押した途端に、横から足音が聞こえてきた。

私は咄嗟に部屋を間違えた振りをしたけれど、待ちわびていたかのような素早さで智くんがドアを開けてしまった。

 

「あ、あ、すいません間違えました。」

 

と私が言うのと、

 

「いらっしゃい。」

 

とハートが飛び出してきそうな優しい甘い声で智くんが言うのと、ほぼ同時だった。

しまった!と思ったとき、足音の主が、

 

「あ、お客さんだった?悪ぃ、急に来ちゃった。」

 

と、明らかに戸惑った声を出した。

智くんの驚いた顔を見て振り向くと、そこには申し訳なさそうな顔の翔くんが立っていた。

 

「あ、おっ、翔ちゃん。」

 

智くんは態勢を立て直して、

 

「入って、入って。」

 

と玄関先にたたずむ2人に促してくる。

 

「あ、そうだね。とりあえずね。」

「あ、はい。」

 

 

リビングで座ると、翔くんはまた申し訳なさそうに言った。

 

「ごーめん。近くまで来たから、ちょっと寄ってこうって思ってさ。お客さんいるとか、まるで考えなかったわ。」

 

智くんは穏やかな笑顔で飲み物を用意している。私は、緊張で肩を上げたまま正座していた。

 

「どうせ、紹介しようと思ってたんだよ。翔ちゃんには話してるから。」

「あ、そうか。あのこの間言ってた人か。」

 

緊張のあまり話が理解できないまま私は2人の顔を交互に見ていた。

 

「たーちゃん、翔ちゃん。翔ちゃん、たーちゃん。」

 

智くんの紹介にかぶせるようにして、翔くんが噴き出す。

 

「もっとちゃんとした紹介の仕方あるでしょうよ。」

 

智くんも目尻を下げて笑って言う。

 

「いや、照れるよね?」

「照れてるほうが恥ずかしいわ!」

「あ、そう?」

 

テレビで見てるような掛け合いが目の前で繰り広げられて、私は少し非現実の世界に来たような錯覚をしていた。気づけば満面の笑みで、彼らのやり取りを見つめていた。

 

ふと、翔くんが私のほうを向いて、

 

「智くんがお世話になってます。ありがとう。」

 

と、とても丁寧に優しく言ったので、現実に引き戻されるのと同時に、胸がギュッとなってしまった。

 

「あ、こちらこそ、いつも智くんが・・・。あ、じゃなくて・・・。」

 

翔くんも智くんもくすぐったそうに笑いだす。ああ、もう!

智くんは、顔を赤くした私の頭をさりげなくポンポンしながらお茶を目の前に置いてくれる。

こんなときは、年上みたいだ。

翔くんは少し目を細めて、そんな智くんを見ていた。

 

私は、自分がこの場所にいられる奇跡よりも、翔くんのその視線の柔らかさに感動していた。

私が智くんを想い始めるのよりも、15年も前から智くんを大事にしてきた人。

その歴史が、一瞬で伝わってしまうほど、2人の間の空気は心地よかった。

 

お邪魔してるのは私かも知れないとさえ思う。

 

ふと、キンモクセイの香りが細く開けた窓から入り込んでくる。

目を閉じたい衝動に駆られる。

 

「いい香り。」

 

智くんと翔くんがほぼ同時に感嘆する。

見ると、照れたように笑い合っている。

 

やっぱりお邪魔しているのは私だ、と確信しかけたとき翔くんが言った。

 

「さてと、智くん俺帰るわ。」

「え?まじで?」

「うん。あなた最近たーちゃんさんとゆっくりしてないでしょ?この前言ってたじゃない。」

「うん。まあそうだけど。」

 

「え!あの、スイーツ持ってきたから、一緒に食べません?モンブラン。」

 

私は慌ててしまった。もう少しだけ、2人を見ていたいと思っていた。翔くんこそが、最大の恋敵かもしれないのに。

 

「モンブラン?まじか!」

 

と言ってから、翔くんは智くんの顔を伺っている。

智くんはニコニコして、

 

「翔ちゃんモンブラン好きだもんね。」

「あはは。そういうあなたもね。」

 

モンブランで大正解だった。私はモンブランをそれほど好まないのだけど。

翔くんは上げかけた腰を下ろして、嬉しそうな恥ずかしそうな顔をしている。

 

「私やるね。紅茶でいい?」

 

「あ、今飲んでるのでいいよ。翔ちゃんは?」

「俺もこれで大丈夫でぇす。」

 

モンブランをお皿に出しながら、2人の会話を聞いていた。

 

「っていうか、あなたモンブラン頼んだの?」

「頼んでないよ。」

「あ、やっぱりもう知ってるのね?」

「うん。知ってるね。」

「えぇぇぇ。なんかすげぇ羨ましいわ、こういうの。」

「んふふ。そうでしょ?」

「いや、本当に。あなたの表情が穏やか。」

「いや、本当にね、すごい落ち着くの。なんか、お互い邪魔に感じる部分がなくて。翔ちゃんとかニノとかといるときみたいに地でいるからね、おれ。」

「そんな感じよ?」

 

聞こえないと思ってしている会話なの?

喜びで、私の心臓は飛び出してしまいそうだったし、手が震えてモンブランをお皿の上で倒してしまったし、どこかに隠れてしまいたいのに、キッチンは2人のいるリビングからは丸見えだった。

 

智くんの顔は見えなかったけど、軽くうつむいて鼻に手をやっていて、翔くんは唇をとがらせて何かを考えているような顔をしている。

 

「はい、どうぞ。」

 

少しうわずった声が出たけど気づかれなかったようで、2人はモンブランを目で追い始める。

 

「うまそ。いただきまあす。」

「いただきやーす。」

「いただきます。」

 

耳が熱いけど、2人は食べるのに集中していて私のドキドキには気づかなそうで、ほっとする。

 

私の智くんへの気持ちは、電話で話をするたびに、そしてたまにこうして会うたびに、大きく深くなっていく。毎日、これより大きくなんてならないって思うくらい、もう既に大好きなのに。

 

正直な話、智くんの気持ちが同じ大きさでなかったとしても、私はよかった。

一緒にいることができるだけで、奇跡がいくつも起きていたのだから。

 

小さくても、忘れてしまいそうな一瞬の出来事でも、私の心の中にはキラキラと刻まれていて、智くんの好きなものや好きな人たちを、私も好きになって、本当に目に映るものが輝き始めて。

そんな奇跡がいつまで続くのかも分からないまま、ただ彼だけを見ていて。

 

「あー。夢中で食べ過ぎて、無くなるのはえ~。」

「もう無いの!?」

 

気がつくと私はモンブランにまるで手をつけないまま思いに耽っていたのだ。

 

「私のも食べます?」

「え?まじすか?」

「うん。実はお2人と違ってそんなに好きじゃないの。」

「え?まじか?」

「え、じゃあ智くん半分こさせてもらう?」

「そうするか。翔ちゃん半分取って。」

 

仲良く半分こにする2人を見て、緊張がほぐれていく。

 

「あ。」

 

2人が同時に振り向く。美男子すぎて、息が止まりそうになる。目もハートになってるかもしれない。本当に。

 

「どした?」

 

智くんの声が優しい。

無理やり目をそらす。

 

「もうひとつあるんだった。持ってくる?」

 

「もっかい半分こする?」

「するする~。」

 

見られないように深呼吸しながらキッチンに向かう。めまいがする。

カウンターに手をついて一拍休んでからモンブランを運ぶ。

見られてるから、転びそうだ。

 

「見過ぎ・・・」

 

思わず言うと、2人は笑って謝っている。

 

「なんかたーちゃんさんが心配で。」

 

翔くんはさすがの観察眼で、私の足の震えに気づいていたのだろうか。

 

「俺の半分このモンブラン、おっこどしそうで。」

 

言ってまた笑い始める。

そっちかい・・・。

心でツッコミを入れながら笑っていたら、テーブルにモンブランを置く頃には手足の震えは消えていて、私はリラックスし始めていた。

 

私はテーブルで2人と一緒に座らずに窓辺に歩いていった。

またキンモクセイが香って、私の意識は外の景色に移っていた。

 

 

 

智くんと外を歩けることはあまりない。

でも、一度だけ、桜の季節に手を繋いでこのマンションの前を歩いたことがある。バス停までの道は短かったけれど、遅くなってしまったからと心配して来てくれたのだ。

 

途中、3本だけ桜の木があって、ちょうど散り始めていた。

歩きながらのお花見だねって言い合って、ひらひら落ちてくる花びらの中心に2人立ちどまって見上げたとき、智くんが小さな、でもはっきりとした声で言ったのだ。

 

「こういうの、普通でいいね。」

 

瞳の色を探ったけど、哀しい色は無くて、ふっと私も笑顔になって、そうだねって言って。

智くんは静かに柔らかく抱きしめてくれて、身長のほとんど変わらない私たちは頬をくっつけ合って、見えないくらい微かに揺れながら、しばらくお互いを感じていた。

 

 

 

「なんか見える?」

 

智くんが隣りに来ていた。

 

「翔ちゃん帰るっていうからさ。」

「あ、そうなの?」

 

玄関で靴を履きかけている翔くんに挨拶をしに向かう。

 

「お邪魔しました。ご馳走様でした。」

「お邪魔なんかじゃありませんでした。会えてすごく嬉しかったです。またご一緒できたら嬉しいです。」

「是非!」

 

「じゃあ、智くん、明日ね。」

「うん。気をつけて。」

 

閉まる直前のドアの隙間から鋭い目をのぞかせてひと笑い取ってから、翔くんは帰っていった。

 

「たーちゃん、ごめんね、なんか。」

「ん?翔くんに会えるなんて奇跡だよ。幸せだった。」

「ちがくて。モンブラン。あんま好きじゃないんでしょ?」

「あ~。うん。私こそ黙っててごめんね。騙したみたいになっちゃったよね。」

「好きって言ってないから、あれだけど。知らなかったよぉ。」

「すんません。」

「おれのために~。」

 

おどけた声で言うと、智くんは後ろからそっと抱きしめてくれる。

そのままゆっくりソファに歩いて、背中を抱きしめられたまま智くんの足の間に座って寄りかかる。

 

「さっきの、聞こえちゃった?」

「ん?」

「翔ちゃんとおれの話。たーちゃんのこと話してたとき。」

「あ、あれ。うん。聞こえてた・・・。」

「ホントだかんね、あれ。たーちゃんといるの、幸せだからね、おれ。」

 

泣きそうだったから何も言えなくて頷いたこめかみに、智くんがキスをする。

 

「普通のこともちゃんとできないけど、それでも2人でできること全部が大事だし。

こんな関係でもすげぇ自慢だしさ。」

 

また頷いて見せる。

 

「翔ちゃんにああ言われてみて、もうおれたち大丈夫だって。

なんかいつも、壊れちゃいそうで怖かったけど。

自信ついちった。

んふふ。」

 

こらえるのもバカバカしいくらい幸せを感じて、ポロポロと涙をこぼしながら、とりあえず智くんにお礼を言った。目を開けられないくらい涙が出て、まぶたの裏にはあの夜の桜の花びらが映っていた。

 

近いうちに今度は、キンモクセイの香りを鼻いっぱいに吸い込みながら、手を繋いで歩きたいねって、泣きながら途切れ途切れにだけど言ったら、智くんはちゃんと聞き取って、びっくりするほど優しく笑ってくれた。

 

花が咲いたみたいだな、ってふと思った。