「なにかいい出来事が起きたから幸せになれるのではなく、
自発的に湧いてくる幸せの感覚を求めている。
だから、出来事を待たなくても、自発的に幸せの感覚を味わっていい」

【根本解決!】幸せを感じる回路を活性化する!

 

「いままでの自分は、自分で自分を否定してきたんだ」


そうした気付きとともに、ある思い出が浮かんできた。

高校三年生。第一志望の合格発表の日のこと。



大学の合格発表を、

折角だからと大学まで行って掲示板を確認しに行った。

 

インターネットでも確認できたと思うが、

なにかあると思ったのかもしれない。

 

 

自転車と電車を乗り継いで約1時間の道のり。

 

校内にはあまり人はいなかったけれど、

大学の敷地に足を踏み入れるのは緊張した。


何人か合格発表の掲示板の前にいた。

でも、テレビや漫画で見るのとは違ってほとんど人はいなくて、

少し残念だったのを覚えている。

 

 

掲示板に貼り出された用紙に、

自分の番号があるのを見つけた。

 

 

 

でも、なにもなかった。
なにも湧き上がるものがなかった。

 

合格した喜びや報われた感動。

 

あるいは、もっと偏差値の高い学校にも挑戦してみればよかったといった悔しさなど、

なにかしら湧いてきても良さそうなものだが、なんの心の動きもなかった。

 

 

学校や仕事から帰宅して

とりあえずテレビのリモコンをスイッチを押すとしても、

もう少し心が動いているんじゃないかと思うほどに。

 

虚しさすらない、”なにもない”出来事の思い出。

 

 

 

もう一つ思い出すことがある。

 

大学時代に、はじめての彼女ができた。

 

高校は男子校だったので彼女ができたらいいなーと思っていたし、めっちゃかわいかった。


しかし、実際に付き合ってみると、

関係がうまくいかず辛い思いをしていた。


嫌いになったことは一度もなかったが、

お互いにとってこのままではよくないと思い別れた

(実際には何度もやり直したんだけれど)。

 

 

 

望みが叶っても、精神的には満たされない。
結果がいくらか出ても、幸せになれるわけじゃない。

 

心の中に、そんなルールが生まれたのかもしれない。

(幼少期の頃に、元になる体験があったと考えられるけど、ここでは割愛)



目標を立てて頑張っていたとしても、心のどこかで

「それが達成したからどうなるっていうんだ」

という感覚があったように思う。

 

大学時代は精神的に辛い時期だったけれど、

望みを叶えても幸せになれない体験を積み重ねた時期でもあったかもしれない。

 

 

「だったら、頑張らなくていいんじゃない?」

 

そんな心の働き、つまり自分への愛情があったんじゃないかと思う。

 

 

自分が大切だからこそ、自分を制限するような働きをする。
これが心の面白いところ。

 

 

 

そんな心の働きに目を向けて、冒頭の言葉に戻る。

 

「なにかいい出来事が起きたから幸せになれるのではなく、
自発的に湧いてくる幸せの感覚を求めている。
だから、出来事を待たなくても、自発的に幸せの感覚を味わっていい」

【根本解決!】幸せを感じる回路を活性化する!

 

「あぁ、自分で味わっていけばいいんだ」

 

喜びやうれしさの感覚が湧いてくるのを待つ必要はない。
潜在意識に心身を任せっきりにする必要はない。

 

自分の意志によって、喜びや幸せの感覚を味わっていける。

 

 

そう思ったら、自己否定や自己制限を手放してもいいんだ、と思えた。
たぶん、自己否定や自己制限は自分が握りしめていたのだ。