「そう考えたら、なにがリスクのない選択だったのだろう。もしかしたら慎吾と組んだことは間違いだったかもしれないし、才能なんて微塵もないのかもしれない。この世界に入ることが最大のリスク、という問題を棚に上げての、あまりにもグラついたリスクヘッジについて僕は思いをめぐらせていた。」(作中より)
リスクとはそもそも個人が「何を大切にするか」によって決まるものですが、数字でいろいろなモノの価値が定量(決められてしまう)現代に於いてはその(何が自分にとってリスクがあり、何が自分にとってリスクがあると”世界が決めている”のか)線引は難しいです。
移動にタクシーを使えば移動時間という”リスク”が減り、歩いて帰れば運動になるので病気になる”リスク”が減るでしょう。移動時間を計測、記録したり運動による体重の減少をデータ化すればリスクは目に見えるかもしれません。
リスクを最小化する事によって失敗した時の責任や結果をより良い方向に向かわせることが出来ます。ですが作中では著者は自分が決めていた(避けていた)リスクは後で気づけばいかに脆く、”グラついて”いたものかという事を理解します。
アドラーの心理学では「その行動(結果、責任)を最終的に受け入れる人は誰か?」という視点で物事を考えます。
親にいくら「勉強しないといい大学に行けないから勉強しろ」と言われても「勉強すると思考が凝り固まるから勉強せずにやりたい事をしなさい」と言われても”勉強をする(しない)”事によって招かれる結果を受け入れる人間は親ではなく子供です。
リスクという観点では行動をデータ化しやすく、天秤にかける事は簡単かもしれませんが、リスクに囚われ過ぎる生き方は、幸せに(シンプルに)生きるという観点では時に”ハイリスク”な考え方かもしれません。
「何かを作る時に「こうすべき」が先にきたものにはパワーがない。順番からすれば「こうしたい」というものが先であり、そのあとに「こうすべき」があるべきなのだ。そしてそうであることはとても難しいのだけれど。」(作中より)
作中では”パワー”という表現で描かれていますが、”持続力”、”原動力”と考えると考えやすいかもしれません。
スポーツ選手はそのスポーツが(中には好きではない方もいらっしゃるかもしれませんが)好きで運動し、健康的な体(そのスポーツに適した体)を持っています。
「もっと痩せなきゃ」、「もっと綺麗にならなきゃ」という気持ちでジムに入会したものの、結局一度も行かない、そんな方もいらっしゃるのではないでしょうか。
僕自身、ジムに入会してから1年間はただ会費を払うだけでジムに行きませんでした。
今では約週4回のペースでジムに通っています。その行動の差は何かと言われればひとえに「自分のしたいこと」と結びつけたからだと思います。
僕は本を読む事と散歩をする事が好きです、そこでオーディオブック(本を声優さんが朗読し、それを音楽のように聴ける状態にしたもの)をジムの行き帰りに聴くようにしました。
そして音楽を聴くことが好きなので、「この曲聴くと楽しくなるな」という曲を選んでジムの運動中に聴くようにしました。
また、昔は”公共のお風呂は汚い”という偏見を持っていたので入らなかったのですが、いざ入ってみるとお風呂に入る事が好きだということに気づきました。
そうして「○○すべき」を「○○したい!」という環境にかえ、行動に移せるようになりました。
著者は作中で”何かを作る時”と限定していますが、僕はそういった動機付けは何事にも当てはまるのではないかと思います。
本を読んだ感想を書くようになって時折、「ここ感想に書きやすいし書くべきだ」「どこか引用出来る文を探しながら読むべきなんじゃないの?」という上の現象とは逆のフィードバック(「○○したい!」を「○○すべき」にしてしまう)に取り憑かれる時がたまにあります。
作中に「そしてそうであることはとても難しいのだけれど。」と書いてあるのは「○○したい!」ではなく「○○すべき」という動機で動いてしまいがち、という考え方もありますが、更に自分が好きではじめたこと、やりたくてやった事が「すべき」事になってしまう危険もあるんじゃないかな、と僕は思います。
「生物は父になる時期に、覚醒するという話を聞いたことがある。家族を守るために必要な強さを、本能的に獲得するらしい。それは肉体的なこと以上に、精神的なことを言っているのだと思う。「強くなる」という考え方よりもむしろ「弱い自分のままではいられないと覚悟する」ということなのかもしれない。」(作中より)
著者がこの本を出版する際に書き上げてすぐ出版するのではなく1年のブランクを置いてから出版したのは自分の自伝にある種の青臭さを感じ、そこに”怖さ”を感じていた。しかし子を持ち父親となって「過去の自分と今の自分は別物であるという視点を持つ」という強さを能動的にではなく自動的に得た(強くなったから父親になったのではなく、父親になって強くなった)という事を表した文だと僕は思います。
誰しも父親になる経験を体験できるわけではないですが、誰にでも父親はいます。そして父親には誰しも強さと同時に「なんでそんな事言える(思える)の?」というある種の嫌悪感や冷たさを感じたことがあるのではないでしょうか。
強さはただただ一方的に得られる(”強さ”だけを得られる)のではなく、それに伴った弱さも同時に獲得するものだと僕は思います。そしてどのような”長所”も”短所”になり得る、その逆も考えられる、と僕は思っています。
素直に意見を述べられる”誠実さ”は、相手を傷つける”傲慢さ”にもなりうるし、相手のことを理解する”優しさ”は時に自分の意見を無視する”冷たさ”にも成り得ます。
格言に「頭のいい人とは足の早い旅人である、誰よりも先に進むことができるが、道端の小石には気づきづらい」という言葉があります。
「バカ正直」、「愚直」など長所とも短所ともとれる言葉は存在しますよね、そのような感覚は、どの言葉にも、どの特徴にも当てはまるのではないかなと僕は思うのです。
「芸人前夜 (著者:中田敦彦)」を読んで、「ただ○○であるのと、その逆をしって○○に”なれる”のは違う」と思いました。
バカであることと、賢い人がバカになれるのは違う、ただポジティブな発言を繰り返す事と、何がネガティブであるかを知って、それでもポジティブな発言を繰り返すのは違う、という事です。
どちらが良い悪いという話ではありません。例えばある道を最短距離で真っ直ぐ進む人がいれば、寄り道をしてどの道が時間がかかるかを理解したうえで真っ直ぐ進む人が居たとします。
その道の先に幸せや良い結果が待っていれば真っ直ぐ進んだ人が有利でしょう、ですがもし不幸や悪い結果が待っていたらどうでしょう。きっと真っ直ぐ進んだ人より寄り道をした人の方が”経験”は多いはずです。
そのキーワードは”時間”の様に見えますが、”時間”や”年齢”は一種のデータ、パラダイム(視点、考え方、立ち位置)でしかありません。
最年少(最年長)で事を成し遂げる人は当然すごい事ですが、それは0歳になる(寿命を迎える)か人類の限界を迎えるまで続きます。
例えば自分がやっている仕事やスポーツなどで自分と同じことを自分より若い人が成し遂げたり、簡単にやってのけたとしましょう。ですが”18歳でやった○○”と”60歳でやった○○”ではすでに別の出来事なのです。
突き詰めればそれは個人です、あなたがやる事と他人がやる事が一見同じように見えても、それは全く違う事です。
ですが現代は情報化、データ化が進み容易に人との”比較”が出来るようになりました。習熟度を測るテストや大会なども頻繁に行われます。油断すれば「自分は人より劣っている」という感覚に襲われてしまうでしょう。
言葉やデータは動物のようなもので、こちらが好意的に接すれば良いパートナーになりますが、敵意を持って接すれば牙を向き人々を傷つけます。
大切なのは自分が良いと思っている方向に言葉と経験を使うことです。人が人より優れている点に目を向け、昨日より今日良くなった出来事に目を向ければ、言葉やデータはあなたにとって良いパートナーで居てくれるのではないか、僕はそう思いました。