「(中略)才能という言葉で紛らわせてはいけない。あきらめる口実に使うわけにはいかない。経験や、訓練や、努力や、知恵、機転、根気、そして情熱。才能が足りないなら、そういうもので置き換えよう。もしも、いつか、どうしても置き換えられないものがあると気づいたら、そのときにあきらめればいいではないか。怖いけれど、自分の才能のなさを認めるのは、きっととても怖いけれど。」(作中より)
僕自身は”才能”や”天才”という言葉がいまいち分からず、よく言い訳に使われてしまう言葉かな、と思っています。能力の裏には必ず努力があり、努力がない”才能の芽”みたいなものは個人の素質です。しかしそれは誰にでもあるものであって、社会において同じフィールドで戦おうとするからこそ、あの人は才能に恵まれている、自分には才能なんか無いんじゃないか、と思ってしまうのではないかなと思います。
才能と同じように”天井”、”諦めポイント”と同じく語られるのが”年齢”です。「やってみたいけど今からじゃ遅い」、「この歳で始めるような人は居ないし」というのは単なる諦めでは無く、自ら今後の人生の扉を閉じてしまうことと同じだと僕は思います。
死ぬ数秒前に何かを始めようとした人は、果たしてムダでしょうか。僕は無宗教なので来世や死後の世界の存在は信じていませんが、何かをやってみようとして死ぬのと、やらずに死ぬのではそこに大きな隔たりがあるように思えます。
そしてもし年齢がハードルになって何かを始められないのであれば、10年、20年後の未来から見た自分はそれを始めるのに十分ハードルが低いのではないか?と僕は思います。
油断すると人は時間が永遠にあると錯覚してしまいます。明日死ぬかもしれないと思ってやれ、という話ではなく、今日始められたなら、きっと明日死んでも幸せだよね、という考えが良いんじゃないかなと思います。
「ただの自分の好きなピアノの音色のために、誰かの不運を願うようなことがありえる。たとえばコンクールに出た誰かが勝ちますようにと願うことが、他の誰かが負けますようにと願うことと似ているのに、それを咎められないのは、ただの願いだからか。願ったからといって叶うとは限らないのだ。僕がいてもいなくても、木の実は落ちる。誰かは笑い、誰かが泣く。」(作中より)
誰かの幸福を願うことが図らずもその他の人間の不幸を願う事につながってしまうことはあるでしょう。そしてそこに気づいた時、一体自分はどうすればいいのかという無力感に襲われるかもしれません。
僕はオリンピックで日本人が金メダルを取っても喜べない人間です。逆に何人であっても世界新記録を樹立したり、金メダルを取ったにも関わらず向上心を持ち続けるコメントをする人を見ると嬉しくなります。とあるオリンピック解説者が「(ウサイン)ボルト選手がいる中で銀メダルを取ったことはすごい」という趣旨のコメントをしていましたが、僕はなんとも煮え切らない気分になってしまいました。結果にかかわらず選手の健闘を褒め称えるのは素晴らしいことです、きっとコメンテーターの方も健闘を称えるつもりでそう言ったのでしょう。ですが僕はボルト選手を(当然競争相手は敵ですが)一種の敵、目の敵にするような発言に見えてしまいました。同じ人間なのに。
幸福を願う対象を一人に絞れば、大勢の人がいわゆる”不幸を願う”対象になってしまいます。ですがその対象を家族、友人、人種、人間、動物、世界と広げていけば、不幸を願う対象は減っていくと僕は思います。
「(中略) 音楽は人生を楽しむためのものだ。はっきりと思った。決して誰かと競うようなものじゃない。競ったとしても、勝負はあらかじめ決まっている。楽しんだものの勝ちだ。」(作中より)
僕も楽器を演奏しますが、僕は(大勢の前で披露する)ライブよりも(仲間だけで演奏する)スタジオで演奏するほうが好きです。当然ライブも好きですが、音楽として楽しむのは演奏仲間、または1人で演奏にふけっている時のほうが楽しく、気持ち良い時間が過ごせているな、と感じます。
ライブでの演奏は音楽はコミュニケーションツールだと思います。「こんな音が良いと思うんだけど、皆はどう?」「僕の気持ちはこうなんだけど、どうかな?」という風に自分の気持ちを言葉ではなく音に乗せて伝える道具のような感じです。
スタジオでの音楽は(性的興奮こそしませんが)一種のセックスのような気がします。ただただ思いの丈を表現する、言葉にできない感情を発散する、メンバーがいれば、お互いに”音”を使ってお互いの心の中を触り合う、そんな感覚だと僕は思います。
楽器はリズム感や音感、楽譜を読めるかなどのスキルの差こそあれ誰にでも楽しめる感情表現の場です(芸術は往々にしてそうなのかもしれません)。ですのでもし楽器や音楽に興味を持った方が居たら是非、聴くだけでなく演奏する側になってみることをオススメします。
「「ピアノで食べていける人なんてひと握りの人だけよ」
奥さんが早口で言った。言ったそばから、自分の言葉など聞き流してほしいと思っているのがじんじん伝わってきた。ひと握りの人だけだからあきらめろだなんて、言ってはいけない。だけど、言わずにはいられない。そういう声だった。」(作中より)
僕も先日、信頼していた病院の先生から同じような事を言われました。僕としては食べていく気はなく、ただ始めてみたよ、という報告だったのですが、きっと先生の優しさに触れたのでしょう。
「○○で食っていけるわけない」という発言は言葉こそ強く、人を傷つけやすい言葉ですが同時に優しい言葉であります。なぜなら誰かがそれを言わなければいけない、イヤな役回りを買ってくれるいわゆる”大人”になってくれる言葉だからです。
言葉の意味としては「諦めろ」と直訳されがちですが、僕は決して”諦めろ”という意味ではないと思います。信念を揺さぶってくれる言葉、骨が折れると再生する時に太くなるように、自分の信念を骨のように折って強くしてくれる言葉、そんな言葉なんじゃないかなと僕は思います。
「(中略)努力していると思ってする努力は、元を取ろうとするから小さく収まってしまう。自分の頭で考えられる範囲内で回収しようとするから、努力は努力のままなのだ。それを努力と思わずにできるから、想像を超えて可能性が広がっていくんだと思う。」(作中より)
一般的な言葉で表現すれば、努力とはすなわち「それを楽しめる才能」なのでしょう。
日頃の習慣や行動を人に話す際に「そうなんだ偉いね」と驚かれる事はないでしょうか。僕は歩くことが好きで、時間があれば1駅2駅先の駅まで歩くのですが、その話をすると人から驚かれます。(そんなに時間あるのかという驚きもあるのでしょうが。 )
そういった自分では努力とは思っていないモノを人が評価してくれた時、そこには”価値”が生まれます。価値は自分ではわかりづらく、逆に「誰がこんなものに金払うんだ」といったものも世の中には流通しているでしょう。自分にとって価値が無いものでも、人にとっては価値があるのです。
価値について気をつけたいタイミングは、「自分が価値を見落としている時」と「自分が価値を軽く見ている時」です。
自分が価値を見落としている時とは、一体自分は何を努力しているのか、自分には本当に価値があるのか、と自問してしまい、自分を傷つけることに繫がります。自分自身を正当に評価して困る人はいません。自分勝手な人は自分のことを自分勝手とは思いませんから、あなたが「これは自分勝手がすぎるんじゃないか?」と思ったときにはすでにあなたは自省できる、自分勝手ではない人間なのです。他人の意見で生きても他人は責任を取ってくれませんが、自分勝手に生きれば責任は自分で取ることが出来ます。責任を”取れる”という事は、自分の人生を生きられるということです。(お金のことを誰にも頼らず生きる)経済的自立や(依存せず孤独を受け入れ生きていく)精神的自立の事ではありません。自分の行動を結果に反映させる、その結果から自分の行動を修正していく、という”自由”の話です。
自分が価値を軽く見ている時とは、一方的に価値観を押し付けたり、逆に相手の価値観がわからず相手を傷つけることに繫がります。価値観は人それぞれあり、そこに優劣も重いも軽いもありません。例えば凶悪犯罪者が何十人もの人を殺したとしても、その人にとっては”殺す理由”こそ価値があり、そのためには”人”の価値など取るに足らないということなのでしょう。その価値観を受け入れろという意味ではありません。そういう価値観もあるが、あなたはどうか?という話です。あなたの価値観を貫き、時には違う価値観に触れて柔軟に自分の価値観を変えていく、またはより一層価値観を固める、そういう価値観との向き合い方が大事なのかもしれません。
「羊と鋼の森(著:宮下奈都)」を読んで
僕はあまり小説は読まないのですが、読み始めてみると一気に引き込まれて読み進めてしまいました。ピアノの調律師の話という事で多少難しい音楽の話は出てくるものの主人公の感情の機微は分かりやすく、時に自分の生き方や考え方に強いインパクトを与える、そんな本なのかなと思いました。
余談ですが、これを読んで調律師やピアニスト、または小説家、思想家になる人が出てきたら美しいなぁ、となんとなく思ってしまいました。僕はちょっとピアノを弾きたくなってしまう程度で収まりましたが、きっとそんな人も現れるのではないかと思えるような美しい文の小説でした。