嫪毐の乱 | 高校世界史

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高校の世界史の授業で使えるネタを紹介していきます。

前回の続きです。

荘襄王は在位3年というで亡くなったため、この時13歳の政が王位を継ぎました。しかし、政治の実権は、若い政にはなく相国となった呂不韋が動かしました。

権勢をほしいままにしていた呂不韋は、政の母である太后と密通していました。しかしこの関係が続けば、身の破滅を招くと考えた呂不韋は、嫪毐という男を太后に紹介しただけでなく、宦官になったように見せかけ送り込みました。太后はすぐに嫪毐に夢中になり二人の子を生みました。嫪毐は、太后の寵愛を背景に権勢を得ました。

ある日、政のもとに告発がありました。それは、政の母に2人の子供がいるという内容でした。この報告を受けた政は、早急に太后(政の母)の周囲を調べました。

一方、嫪毐は、自分の身辺が調べ上げられていることを知ると慌てて兵を起こします。
これに対し、政は、準備を万全にしていました。嫪毐とその子供2人(政の弟)を捕え処刑しました。この一件は嫪毐を推薦した呂不韋へも波及します。秦には、商鞅以来の厳しい法が続いています。連座制に則り、呂不韋は本来なら処刑となるところでしたが、今までの絶大な功績に免じ呂不韋は処刑を免れます。

しかし、これでは終りませんでした。その後、いまだに大きな力を持つ呂不韋が反乱を起こすのではないかと危惧した政は、書状を送り領地没収し、流刑と処します。

呂不韋は、政が自分を許していないと知り、自らの末路が手に取るように分かりました。
そして、呂不韋は、自殺します。秦王の政は、名実とともに秦の権力をようやく掌握しました。