Part 1 石油という「血」
投稿予定日:2025年12月10日
石油は「戦争の血」だった
あなたは、石油が単なるエネルギーではなく「戦争の血」であることを、どれだけリアルに感じたことがありますか? その起点は1859年、米国ペンシルベニアでエドウィン・ドレークが石油を掘り当てた瞬間でした。石炭中心の産業革命は内燃機関へとシフトし、自動車・飛行機・戦車が誕生。石油は生活を豊かにした一方で、列強の植民地争いを激化させ、20世紀の戦争死者の半数以上が石油関連の紛争によるものだといわれています。
日本の資源渇望と戦争への道
資源に乏しい日本は、この渇望の渦に巻き込まれました。
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1894年の日清戦争で台湾を獲得(石炭・鉄資源狙い)
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1904年の日露戦争で南満州鉄道権益を確保(将来の石油を視野)
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1931年の満州事変で大慶油田の存在を察知
1937年の日中戦争全面化後、米国は1940年に航空燃料輸出を停止、1941年には全石油禁輸。日本は当時、石油の88%を米国に依存しており、残りはオランダ領東インド(現インドネシア)。禁輸は「経済的死刑宣告」でした。真珠湾攻撃は、この資源絶望の連鎖反応だったのです。
プロパガンダの刃
1944年、フランク・カプラ監督の米国戦時映画『バトル・オブ・チャイナ』は、中国文明を美しく描きつつ、日本軍を「野蛮な資源略奪者」として糾弾しました。この映画は米軍兵士の必修教材となり、戦後GHQ教育にも活用。結果、日本人は「資源のために侵略した極悪人」という罪悪感を植え付けられました。2025年現在も中国の抗日映画で「日本鬼子」のイメージが生き続けているのは、このプロパガンダの遺産です。
戦後の石油依存とオイルショック
戦後、日本は憲法9条と引き換えに「軍事力による資源確保」を禁じられ、石油輸入依存率99%超の「借り物の燃料」で復興。1973年の第1次オイルショックでGDP10%減、1979年の第2次でさらに打撃──これが低金利政策の種を植えました。資源を失った日本は、金融資源(安い円)で「償い」を強いられる構造に固定化されたのです。
👉 次回Part 2では、その金融の「鎖」がどう張られたかを、具体的な数字と証言で暴きます。