通学路 | A Cheap Log.

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Kei

大阪は久々に恵みの雨で記録的猛暑だった今週も漸く一服し涼しくなった。

週半ばに豊中で37度を越え兵庫の豊岡や京都の京田辺等、体温近い猛暑の中で熱中症に注意する様に気象庁も警戒を呼び掛けていた。

髪もボサボサになり暑さで我慢できなくなり漸く散髪に行った。
「だいぶ伸びたな~短くしとくで」いつも通りマスターお任せで刈り込んで貰った。
帰宅したらカミさんに「アンタえらい短かしてもうてんな~、コボちゃんみたいやんか」ゲラゲラ笑われた。

今週は予想外の晴天続きで連日チャリで仕事廻りに精を出した。お陰でアッという間に顔と腕が日焼けした。軽い火傷の様にヒリヒリする。日焼け止め塗らないと身体に悪そうだ。

先日は資料提出に本町に出た帰りに久々に教会に立ち寄った。


大学のクラスの子が教会に行った写真をFBにアップしていた。
40年前に小学校のミサで行ってた頃と何ら変わってない。結婚式後も数回来た程度で前に来たのはかなり昔になる。

誰もいない教会で一人祈った。「天使祝詞」も「主の祈り」も一言一句忘れていなかった。

http://hosanna.romaaeterna.jp/prayer/oratio/avemaria.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A

帰り際に事務室の女性の方と話した。結婚式をして頂いた神父さんは既に天に召されたとの事だった。
結婚式は学校のツレからバイト仲間、会社関係者まで400人近く来て頂き満杯だった。
「祝儀も何もいらん、来たい奴は勝手に来い」
殆ど女っ気のなかったアホが早々に所帯を持つと大半のツレは驚き参列した。芳名録を作らなかった事を今もカミさんは悔いる。

披露宴は進行表やBGMも全て自分で作り今思えば至らぬ事も多々あったが若造が精一杯考えカミさんと二人で進めた共同作業は今は懐かしい思い出だ。


神父さんに挨拶し教会を出てから通っていた小学校を訪ねた。

ブラバンの恩師の先生は元気そうだった。63歳になられたが殆ど変わってなかった。
職員室に入りシスターにお茶を頂き先生方と暫し歓談した。大半の先生は面識なかったが全国大会に出た事は皆が知っていた。
お世話になった先生方も多くが他界された事も初めて知った。
一人の生徒が職員室に入って来て怒られていた。在学中に頻繁に呼び出されていた自分の昔を見ている様だった。

「頂いたクラ、修理出したら音出るようになって今も一応吹けますわ」と言ったら笑っていた。
在学中に指導頂いていた頃は先生は29歳だった。4年生の時に学校に赴任された。バンドは元々は前にいらした先生が創部したが急に学校を辞められ後任で来られた。
先生が変わり大半がバンドを辞めたが同級生は6人残り最終の6年の時にコンクール優勝で全国大会出場となった。

祝勝会として同級生6人と先生でミナミに出掛けた事を今も覚えている。楽しい一夜だった。

この学校に赴任されるまで某有名楽団にいらした事を当時誰も知らなかった。

先生に挨拶し学校を後にした。六年間通った通学路をチャリで流しながら昔の事を色々思い出した。途中の仁丹とコピーの会社は様変わりしたが周囲は昔の風情が残っていた。
元々は大阪の富裕層が多数住んでいた大阪でも数少ない閑静な「山の手」だが、モノを知らない連中は只の不便な場所程度にしか理解していない。

通学していた頃は大阪万博から数年後で環状線は狂った様な混雑だった。ホームは煙草の煙で真っ白で電車は息も出来ない程だった。時には身体が宙に浮いている事もあった。現在の山の手線のラッシュなんか高が知れていた。


仲の良かったツレが数年前に他界した。数日後に集まって飲む約束をしていた矢先の訃報に耐え難い程の落胆をしたのも既に6年前になる。

幼稚園の頃に殆ど家にいなかった親父の一言で南浦和から大阪に移住し早や40年。

親の期待や自己実現を十分に満たす人生では無かったかもしれないが家内と二人で日々幸せに暮らせる事を感謝しながら今後も自分の生を全うするしかない。

翌々週は結婚20周年…家内を連れ美味いモノを食べ祝いたい。