夜に眠って朝に起きる | ザ・ストーンズ・バザール

夜に眠って朝に起きる

0914
大きな大きな水晶製の大黒恵比寿。長い間埋めたままになっているので、今日あたりショップに行って発掘しようと思っている。

夜に眠って朝に起きる。当たり前のことであるけれど不思議に思う。若かったころ、二日に一度眠れば済むよう試したことがあった。長つづきしなかった。
 
眠っているうちに魂は身体を離れて別の時空の旅人になる。そうやってずーっと帰ってこない。そのうち身体は萎びて小さくなり、やがては爪と髪を残して消えていく。それでもいいと眠るときに思ったりする。なのにいまのところは必ず朝になると目覚めて、仕事が山盛りの一日を迎える。考えてみれば意識が身体とともにあって、身体に拘束されているのも不思議な感じがする。
 
宮沢賢治の本を読んでいるとますますそういう気分になる。
 
彼の本は『風の又三郎』『ビジテリアン大祭』を読んで、『インドラの網』を読みすすんでいる。
 
鉱物を巡る自分の本を書くのに宮沢賢治に登場願おうかと思った。といったところでネタ切れしているわけではない。まだまだ『老子』『無門関』『臨済録』はてつかずも同然。老い先短い身であれば、もう死ぬまで退屈することがないのは保証済みのようなもの。
 
しかし、それでも、なぜだか彼の霊がそこらにいると感じるような始末で彼のことが気に掛かる。
 
はじめは退屈だった。絶対的美女が登場するわけではないし、鉱物についてもそれにまつわる不思議な話があるわけではない。どれもこれも半分死んでいるような、のっけから人生をあきらめているような話ばかりの感じがした。
 
そうやって、この人は死後のクニでの出来事を書いているのだとふと気付いた。
 
そこにあるのは仏教経典にあるような絢爛豪華・酒池肉林・放蕩三昧の浄土の出来事ではない。どちらかといえば縄文時代の、つまりは私たちの原体験的な死後の世界で、邑の近所の山奥に死者が行くもうひとつの邑があって、死者たちは慎ましやかに暮らしながらも、こちらで暮らすのと同様に様々な事件に遭遇している、そういう死後の世界が彼の物語には描かれている。
 
そういうふうに感じると宮沢賢治が内なる自分のひとりであるかのようにも感じられ、石たちを愛でるということは宮沢賢治的には異界を愛でるということでもあると自認して、辛気臭さも我慢できるようになって、がぜん宮沢賢治がおもしろくなった。
 
彼はどこかでイタロ・カルビーノに似ているといまは思っている。
 
それにしても宮沢賢治の物語を「童話」に指定したのはどこのだれなんだろう。この分類は純文学と通俗小説を区分けするのと同じほど愚劣と思う。