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自らの文章のアーカイブと考えている

日本の捕鯨その伝統と文化

 2014年7月27日夜放送のNNNドキュメントは、日本の調査捕鯨に関する特集で、その取材の掘り下げ方に驚くほどしっかりした番組だった。

 私は国際司法裁判所で日本の調査捕鯨が否定されたのは、捕獲数が多く商業捕鯨になっているからだと、勝手に思い込んでいた。
 事実はその逆だったのだ。

 生息調査に必要な捕獲数を事前に計画しておきながら、その捕獲数に満たないわずかな捕獲しかしないために科学的ではないという判断を下されたのだ。

 なぜ予定の捕獲数を遥かに下回る(ある種類に関してはゼロ)捕獲しかしないのか?その理由は在庫調整だと言う。
 日本人が鯨を食べないために在庫がダブついており、計画通り捕獲するとパンクするということだ。
 この時点で商業捕鯨だ。

 国際司法裁判所での弁解は、シーシェパードの妨害によって捕獲できなかったという誰も信じない理由だった。

 また、鯨は日本の伝統と文化という言葉は、捕鯨をナショナリズムと結びつけそれを推進しようと考えた業界が広告代理店に作らせたキャッチコピーだと言う。
 確かにある地域での郷土料理ではあったろうが、「日本の伝統食」とは言えないであろう。
 現に年間の消費量はひとり40グラムで、串カツ1本より少ないと言う。

 国際司法裁判所からは「科学的ではない」という理由で否定されたのに、政治家や官僚は「欧米の感情論」と主張し日本のナショナリズムを刺激する態度をとっている。
 それでも尚「調査捕鯨」を続けたい(水産庁?鯨類研究所?)意思があり、捕獲数をさらに縮小して行うという墓穴を掘っているとしか思えない行動に出ている。
 これを思うと伝統と文化の鯨食を守ろうとしているのではなく、調査捕鯨のみがしたいように思える。
 調査捕鯨に拠出する政府の補助金が目当てとは思いたくない。

 もうひとつの誤解。
 仮に鯨食が「日本の伝統と文化」とした場合、それらは一切否定されていない。
 なぜなら、沿岸捕鯨は認められているし、調査捕鯨で捕獲した鯨類は調査の後は食資源として活用していいことになっているからだ。

 もしこれからの道を探るとするなら、消費量を増大させることを図らねばならない。
 なぜなら人が食べなくなったものを捕らなくなるのは必然だからだ。
貸本マンガに描かれた原爆…復活なった『貸本マンガ史研究』

 2011年2月28日に22号を発刊してから休刊していた『貸本マンガ史研究』が第二期(2014年6月30日発行)として復活した。

その巻頭特集が「原爆と貸本マンガをめぐって」であった。

 貸本マンガ専門の出版が始まったのは53年頃。
少女マンガが大部分で、男児向けには時代劇、怪奇ものが中心であったため、初期には原水爆を扱った男児向けマンガはほとんどなかったと言う。(三宅秀典)

 「悲劇」を要素として少女マンガにおいて原水爆が登場するという。
 それは両親との生き別れや裕福な暮らしからの転落となる。

 男児向けの貸本マンガにも原爆がモチーフとなっているものが増えていくことが分かるが、大手出版社の子ども向け雑誌には、原子力発電を中心とした「原子力による人類の明るい未来」も無批判に描かれたとし、核への恐怖と希望が混在していたと言う。

 『鉄腕アトム』の原動力は原子力モーターだし、妹はウラン、弟はコバルトである。それは平和利用という虚妄から抜け出せなかった時代であり、他のマンガも同列であったと指摘している。

 吉備能人は、貸本マンガは「表現上の制約が少なかったか」から絶対的な悲劇としてたびたび取り上げられたと言う。

 滝田ゆうの『ああ長崎の鐘が鳴る』はそのなかでも「反原水爆」への願いが全編に横溢している稀有な作品だと言う。そして、「原爆症がたんなる泣かせの道具立てであることをこえて、原爆投下から十数年を経た当時でも、庶民のつましい日常をおびやかすものとして原爆症の恐怖が存在することへの、作者の静かな抗議がこめられていたと考えたい」としている。

 また、ストーリーに起伏が少なくおとなしい印象を与えることを「つましくて平凡であるだけで価値を持つはずの「暮らし」を低い視線からとらえた作者の、庶民をみつめる暖かな世界に共感をおぼえた読者がいたとしてもおかしくない」と分析する。
 それは作中の姉妹のように家計をささえるために中卒で働いていた若年女子労働者もまた、貸本屋に足を運んでいたからだ。

 文章中には原爆を扱った多くのマンガが登場する。
 現況の大手出版社のマンガがどれだけ原爆を扱っているかについては興味を感じる。

 そのほかの記事としては権藤晋『貸本小説と少女小説』が歴史の掘り起こしをしていて貴重であると思った。
貸本マンガ史研究
スパゲティの食べ方 ver.1 スプーンは使う?

 パスタの中の麺状のものについて、例えばスパゲッティの食べ方について

 NHKハイビジョンで2011年1月1日に放送された「夢の聖地へ イタリアピアモンテ 至高の郷土料理に学ぶ 料理人奥田政行」で奥田政行氏がピエモンテのオーナーシェフにキノコのスパゲッティを作った折り、そのシェフはフォークとナイフと使って「巻いて」食べていました。

 ある有名イタリア料理のシェフの言葉。
「イタリア料理は無い。郷土料理があるだけだ」
 つまりスパゲッティーの食べ方も各地それぞれという前提に立ちます。

 次に、映画のシーンから。

 コッポラの映画「ゴッドファーザー2」で、若きコルレオーネのアパートで食事をするシーンがありますが、みんなスプーンを使って巻いて食べています。シシリーの風習かもしれません。コッポラも他の俳優人もレッキとしたイタリア系ですね。

 イタリア映画祭2006の出典作品「I giorni dell’abbandono」 では夫婦で食事するシーンがありましたが、夫のみフォークとスプーンを使っていました。妻はそれに対し何の反応も示しませんでした。場所はローマで夫は会社の経営者です。

 イタリア映画の 「ESTATE VIOLENTA」(邦題は「激しい季節」原題はムッソリーニ失脚の夏のことを指しているのでこの邦題は賛同できません。せめて「夏」を入れてほしいと思います)のプロローグで避暑地の上流階級の若者たちがスパゲティを食べるシーンがありますが、フォークだけで、誰も巻いていません。巻かないのは手で食べていた名残だと思います。  
 この映画作品は佳作です。

(毎年イタリア映画祭で12本位のイタリア映画の新作を観ますが、スパゲティーを食べているシーンは本当に少ないんです。食事のシーンはけっこうありますが…蛇足ですが、「パスタは前菜でパスタだけ食べるのはヘン」とよく言われますがイタリア映画に出てくる家庭ではパスタだけの場合が結構あります。)

 アイスランドのダーグル・カウリDagur Kári監督の映画『ダーク・ホース』(原題Voksne Mennesker、コペンハーゲンで撮影したデンマーク語の作品)映画そのものはモノクロームでヌーベルヴァーグのオマージュ作品としてなかなかの佳作でしたが、その中で麺状パスタを食べるシーンがありました。男性は右手にナイフ、左手にフォークを持ってフォークですくった麺をナイフでフォークに巻きつけて食べていました。同席していた若い女性は右手のフォークだけで巻いて食べていました。ドイツとデンマークはかなり生活習慣が近いので、ナイフを使うことは予想できたがその使い方は面白かった。

 60年代のアメリカンテーブルマナーの本には「スプーンを使って巻いて」となっています。

 1982年のニューヨーク・タイムスに有名なイタリア料理シェフの話として、以下の記事がありました

"spoons are for children, amateurs and people with bad table manners in general" (Claiborne: The New York Times, 1982).

「スプーンは一般に、子供、アマチュア、テーブルマナーの悪い人々が使う」この記事で勘違いする人が多いのですが「スプーンだけで」という意味のようです。

 シルクロードの沿線ではスプーンだけでスパゲティーを食べるところが少なくありません。スプーンで麺を食器の壁(?)に当てて切って食べるのです。これは麺が柔らかいからできます。この場合音が出るので嫌う地域があるようです。

 ドイツで、ナイフでスパゲティーを切ってフォークで食べている人を何人か見かけました。 

 はっきり言えることはイタリア映画の中でも、スプーンを使って食べている人はいますし、フォークだけで食べている人も巻いている人もいれば、巻いていない人もいてまちまちです。どちらかと言うと、巻かないことの方が多いようです。麺状パスタ類はイタリアばかりではなく、ヨーロッパのほとんどの国で食されていて、郷土料理になっているところもありますので、イタリアの食べ方だけを意識する時代でもないと思います。

 また、スパゲティがイタリア全土で食べられるようになったのはかなり新しく、1960年代です。それも乾麺が普及してからです。
 また、スパゲティーという言葉も「ひも」を意味するスパーゴが語源ですが、20世紀に入って工業的に大量生産されてから使われだした言葉ですので、それほど歴史のある言葉ではありません。

 もともとナポリなどの南部だけで食されていたもので、これはグルテン含有量が高いデューラム小麦の生産地との関係が深いのです。デューラム小麦だから乾麺が可能になり、さらに押し出し機の開発でイタリア全土に普及したのです。だからデューラム小麦の生産ができなかったエトルリア以北は生パスタが普通です。北イタリア料理店でパスタを食べると、生パスタのフィットチーネであることが多いと思います。これはこれでたいへん美味ですが…

 イタリアのことを知っている方はわかると思いますが、イタリアは各地方で言語が違いました。言語が違えば料理も風習も異なります。だから厳密に言えば「イタリアでの食べ方」というものは存在しないのかもしれません。

 その本場のナポリでの食べ方は、19世紀まではフォークは十分に普及していましたが、手で食べていました。ナポリのパスタ博物館に行くと街頭で手で食べている写真がいくつもあります。

 イタリア全土に乾麺スパゲティーが普及するより、アメリカでの普及が先でした。
 1890年頃からイタリアからアメリカへの移民が増えましたが、カンパーニア地方とシシリー地方の人がほとんどで、彼らがアメリカでスパゲティーを普及させました。
 アメリカで最初にブームになった外国料理はイタリア南部料理である、といわれています。

 そこで、アメリカの食品会社がトマトソースのスパゲティー缶詰を販売するようになります。この時は硬質小麦ではなく軟質小麦だったので、アメリカ中の人は(おおげさですが)やわらかいスパゲティーに慣れてしまいました。やわらかい故にスプーンを使ったとも言われています。

 第二次世界大戦前にアメリカではスパゲティーやパスタが普及しており、イタリア全土の普及よりかなり早かったといえます。

 実際にイタリアで少数ですがスプーンを使っている人はいます。その人が観光客かもしれませんので、「確証」はありません。しかし、誰も関心がないのでは?というよりイタリアでは決まったマナーそのものがないのではないかと思います。

 ただこのように「歴史」らしいものを見ていくと、スプーンを用いるのはアメリカンスタイルのようです。日本には進駐軍として「文化」を持ってきたので、スパゲティーには「フォークとスプーン」が定着したのかもしれません。

 東京外国語大学の学祭で、イタリアからの留学生やイタリアへ留学経験のある人たちに聞いたことがあります。(ここの大学では26言語を学習している学生たちが26地域の料理を出します)フォークとスプーンを両方使う人は少数派でした。
 あるイタリアからの留学生がスプーンを使わない明確な理由をあげてくれました。「プリモ・ビアットであってスープではないから」(プリモ・ビアットというのは第一の皿という意味)ただパスタと大きな範囲で言うならスープの浮き実に使われていることもあるので、その場合はパスタをスプーンだけで食べることになります。(蛇足ですがコーヒーのエスプレッソは、飲み終わった後に砂糖の塊が残るほど沢山入れることを知りました。ただかき回さないようです)
外語祭は毎年11月です。是非行ってみて下さい。

 簡単に言えば誰も「マナー」など考えずに食べています。パスタは長い食事のほんの「ひとこま」に過ぎないからです。本当に詳しくお知りになりたいのなら石毛直道著「文化麺類学ことはじめ」講談社文庫が決定版です。

 ローマっ子らしいスパゲティーの食べ方は、フォークだけで巻かないで食べるスタイルだと思います。ただやってみると難しい。すすれないので、かなりの労力を要します。 (昨今は、祖父母がロマーニャ=ローマ語で孫に話すと、その子の母親にハゲシク叱責されるそうです)


 パスタを定義できるのでしょうか?

 小麦粉で練ったものをパスタというなら「ちくわぶ」「ほうとう」ですらパスタです。(パスタの語源は「練る」)さらにイタリアではそば粉で作ったパスタがあります。北イタリアでは小麦粉ができないのでそばを食べていて、ピエモンテでもパンやパスタにして食べられていました。

 ロンバルディア州のヴァルテッリーナ (Valtellina)ではつい最近までそばを作っていたといいます。現在そば粉は中国やハンガリーから輸入されています。ヴァルテッリーナはぶどう酒も美味しいが、郷土料理としてそば料理も観光客に人気があります。
 そば粉をファリナ・ディ・グラノ・サラチェーノと言う。
 これは「サラセン麦の粉」という意味です。フランス語やスペイン語でもそば粉を「サラセン麦」と言うし、ポルトガルでは「ムーア麦」と言う。アラブ世界から伝えられたからともいうし、肌の色が近いからという説もあるらしい。

 ヨーロッパでは小麦粉が高級でパンがまだ主食の位置を占めていなかった時代、トウモロコシやそばが食べられていた時代がありました。

 映画『木靴の木』(L'Albero degli zoccoli:エルマンノ・オルミ監督)では滅多に口にできない高級品として小麦粉が出てきます。パスタとしての料理としてはピッツォケッリpizzocheriがあります。そば粉8割小麦粉2割でまさしく「二八そば」、この生地を包丁でスパゲティくらいの細さに切ってキャベツとゆでる。パルメザンチーズ層とフェータという硬質チーズの層の間にそばとキャベツの層を挟み、それを幾層にも重ね溶かしバターをかける。識者によるとブータンの「プッタ」に似ていると言います。

 そうすると、そばもそばがきも冷麺もみんなパスタです。

 また、イタリアは有数の米どころです。
 米の収穫に従事する季節労働者がテーマとなっていた映画『苦い米』(Riso amaro:ジョゼッペ・デ・サンティス監督)で分かる通り米は高級品です。料理としてはリゾットRisotto、アランチーニArancino(コロッケ)、サラダが有名ですが、米のパスタはPastaRisoとして商品化されています。

 すると米粉を使った白玉、求肥、ビーフン、フォー、米粉使用のもちなど、うわぁみんなパスタだ。かろうじて、「きりたんぽ」「おはぎ」がパスタ定義からはずれるか…


 追伸
 スパゲティの食べ方にこれほど論争があるのは、ちゃんとした決まりがないからです。これだけは確かです。そしてなぜか日本だけです。

 追伸2014.8.13
 映画『アデル、ブルーは熱い色』(LA VIE D’ADELE CHAPITRES 1 ET 2,2013年)にスパゲッティ(ボロネーゼ)を食べるシーンが何度も出てくる。フォークで巻かないで食べていた。またフォークとナイフで食べていて、麺をナイフで切るのか(切っているシーンは無い)長い麺はない。驚いたのは、若い女性が麺をすすって食べていた事。中華料理や日本料理が珍しくなくなり、「すする」ことができる人が増えて来たのかもしれない。