映画『百円の恋』
私はボクシングがとても好きだった。
「だった」と言うのは過去形だ。
ボクシングは野球やアメフトと違って、やるにも見るにも旬があるのだ。それは私が後楽園ホールのファンだったからだ。ホールで世界タイトルマッチはまずない。それにテレビ中継はほとんどされない。深夜枠で放送されていたが今はそれもない。
つまりホールに行かなくなると見ることがなくなるから旬があるのだ。
4回戦、6回戦、8回戦にそれぞれスターがいたし、個人的に好きなボクサーもいた。新人王トーナメントもB級トーナメントも満席が珍しくなかった。
ところが外に出ると誰も知らない。
そして、ボクシングはスポーツではないと思っている。
相撲もアメフトも相手へのダメージは負の副産物であるが、ボクシングはダメージを主眼にする。だから打撃する場所が、ハート、ストマック、リバーというように明確に区分されている。どう打てば、どこを打てばダメージが強いかを常に意識する。
また日本のプロスポーツで学歴が不必要なのはボクシングと相撲だけだ。
さらに体が小さくてもできるのはボクシングだけだ。
アマチュアとプロのかい離も激しい。
アマチュアは高校大学で始めるが、プロは通りがかったジムで何かに魅せられて始める事が多いのだ。
通りがかって(何かに魅せられて)始める者の多くが言う魅力は「平等」ということだ。
ケンカは乱暴な者、向う見ずな者の先制攻撃のみで終わるケースが多い。つまり、力の発揮に対する平等だ。
そして、本作品のテーマと私が感じた「痛み」だ。
スパーリングでも試合でもリング上で痛みというものはほとんど感じない。
すべてが終わり興奮の波が引いてから痛みを感じる。
その痛みに生きている実感を感じる場合があるのだ。生きている実感があるのだ。興奮と陶酔の残渣である痛みが、自分が生きていることを実感させてくれるのだ。
狂犬と呼ばれ、誰ともコミュニケーションをとれない少年が、ジムに来てしばらくすると上級者に教えを乞う風景は、彼が他者との関係性を得た瞬間である。価値観が多様であることを知らされていない世代の覚醒でもあるのだ。
安藤サクラがが、家族とコミュニケーションがとれなかったのに、トレーナーや会長とコミュニケーションをとっていくシーンは冷静に見られなかった。
そして、ロープスキッピングもシャドーもスピードボールもどんどん上達していく。演技とは思えなかった。
当然体型も変わっていく。
パンチスピードもトリック撮影ではないかと思うほど速くなる。
また試合のシーンがリアルだった。
サクラが3Rでダッキングした反動で、左でリバーとジョーのダブルを決めた時は体が震えた。ミットやサンドバッグで練習していた形だった。これだけのためにボクシングをやっていると言っても過言じゃない。
サクラが始めた動機を聞かれて「殴りあって、その後に(対戦相手と)肩を抱き合ったりしたい」と言っていた。
人の関わりを求めているのだ。
逆を言えば人との関わりの希薄さがあるのだ。つまり人は自分の生きているステージの中のコミュニケーションがある。家庭であったり、地域であったり、会社であったり、学校であったりする訳だ。
それはそのシチュエーションで自分を演じている自分が居て、それにふさわしいコミュニケーションをとっているにすぎないのだ。
痛みが介在したコミュニケーションの純粋性と言ったらあまりにロマンティックか…
人は表現できる場所を求めている。
表現に対象があるにしても、無いにしてもだ…
なぜなら自分が何かわからないからだ。自分に語りかけたいのだ。そのシンプルなスタイルが自分の肉体に語らせることなのだ。
役者としてのサクラは『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』『かぞくの国』を観ていたし、荒井浩文は『BOX』『モテキ』『愛の渦』を観ていて縁のある役者であった。
とにかく二人とも役作りがすごい。
新井に関しては体型を始め顔まで違う。
サクラもボクシングを始める前と後では目まで含めて別人だ。
トレーナー役の松浦慎一郎がはまり役。
マニア向けかもしれないが、私ははまった。
監督:武 正晴
脚本:足立 紳
