国家、国、くに…そして国家観としての憲法 | leraのブログ

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国家、国、くに…そして国家観としての憲法

 今更国家を定義しようなどと思わない。
 できないからだ。

 ただひとつ分かっていることがある。
 国家は国民を必要とする。
 国民は国家を必要としない。

 突然とも言えるISIS(イラクシリアイスラム国)の登場。
 パレスティナとガザ地区とイスラエル。
 クリミア半島とウクライナ。
 中華人民共和国におけるチベットとイスラム圏
 トルコ、イラン、イラク国境のクルディスタン
 スペイン、フランスとバスク
 グレートブリテンとスコットランド、ウェールズ、北アイルランド

 人々に色があるとするなら、それは民族と言語と宗教(文化)だろう。しかし、民族は定義ができないので言語と宗教(文化)であると言おう。(必ずしも経典があるのが宗教ではない。その場合は文化と呼ばれるのかも知れない)
 人々は言語的共通性で集団を形成し、宗教(文化)的共通性で集団を形成する。

 もし愛国心というものがあるならば、言語に対する愛着であり、宗教(文化)に対する愛着だろうか?

 例えば国であることの「資格」はなんだろう?
 まず国の範囲というものは歴史上定まったことが無い。大きくなったり、小さくなったり、不明確だったり。そこに人がいたらさらに複雑だ。バルト三国などが好例だ。
 ひょっとして「国民」の存在が唯一の「資格」かもしれない。
 だから「国民」を縛りつけようとするのだろう。

 アメリカ合州国が膨張していったとき、先住民族やスペイン語話者やハワイやフィリピンの人々は国をどんなものと意識しただろう。

 琉球処分で「日本人」になった琉球弧の人々。あるいは日韓併合し「日本人」になった朝鮮半島の人々、さらに敗戦後突然日本人ではなくなった人々。彼らは国とはなんだと思っただろう。

 サイクス・ピコ協定で「作られた国家」にいた人々…つまりシリアとイラクにいた人々だ。宗教も、宗派も、言語も違う人々は国家をどういうものと思っただろう。

 バルフォア宣言という無責任な宣言によって誕生した国家以前にその地域にいた人々…

 ロマの人々や、ベドウィン、海上で生活するモーケンの人々、などは国という概念を持たない。その人々の国家観とは何だろう?

 ウェストファリア条約で国民国家が登場したとき、「国家は国民を守る」という利害の一致は新たな国家観を形成したと思う。
 それは「守られるべき国民」を明確にしたからだ。
 それは「国民」にいくつかの階層が産出されたことを思わせる。

 マイケル・チミノ監督の映画『天国の門』はその典型像を描き出した。
 国家に守られるWASPと、守られない先住民族、東欧からの合法移民、そして女性たち。
 この映画作品では、国家とは法律だと分かる。
 法律が生きる国民と、そうでない国民とを分かつのである。
 つまり利用可能な人々のために国家があることが分かる。もっと言えば利用できる人が国家を作り維持する。

 冒頭に諦めた国家の定義を言葉を借りてやってみよう。
 まず定義についてはスピノザが言うには「その対象の起成原因を表現しなくてはならない」らしいからやっぱりできない。国家の起成原因を述べることは膨大な言辞を必要とするだろう。

 しかし、マックス・ヴェーバーが『社会学の根本概念』『職業としての政治』の中で以下のように定義している。
・社会集団の中で国家だけが暴力を行使できる。
・正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である。
・死刑における殺人が合法なのは、殺人を行う主体と、合法・違法を判断する主体とが同一であるからである。殺人を合法なものと違法なものとに分ける権限を持つもののみが、合法的な殺人を行うことができる。(決定と執行の一致)
・法を決定することができるのは、暴力そのものの機能にもとづくからである。(暴力のみが法を保証する)
・国家は、みずからの暴力の優位性をできるだけ強化するように人的・物質資源の配備を、必然的に目差す。
・国家必要論は予防的対抗暴力のシェーマ(ドイツ語のSchema)にもとづいて国家の存在理由を説明するが、そのシェーマそのものがすでに、特定暴力だけを「よい」ものとして示そうとする目論見に貫かれている。
・国家が他の暴力を取り締まるのは、法措定(そてい)的・法維持的な暴力に内在するロジックにもとづいている。その取締りは道徳的な善・悪という区別に由来しているのではなく、暴力のヘゲモニー争いにおける「合法的な暴力行使の独占」の論理にもとづいている。つまり、暴力をめぐるヘゲモニー争いの帰結として国家は存在している。
・暴力のヘゲモニー争いに勝利しているという事態が国家を構成している。

 端的に言えば、国家とは暴力なのだ。

 ルソーは「暴力はひとつの物理的な力である。力に屈服することは、必然からの行為であって、意志からの行為ではない。」と、暴力にのっとった社会はけして正当なものではないと言っている。

 太平洋戦争下、治安維持法という暴力は国民に向かい、国民は望むと望まざるとにかかわらず動員され、戦地や勤労奉仕先で死に、開拓先で死に、疎開船で死に、空爆で死んだ。
 すさまじい内外の暴力に晒されたのは、まぎれもなく「国民」であったわけだ。
 反戦思想の持ち主は拷問を受け獄死したり、懲罰徴兵によって(あの丸山真男ですら)戦地へ行かされた。

 萱野稔彦は著書『国家とはなにか』の中でこう言っている。
「国家はみずからの保全と利益にかかわるかぎりでしか、住民の安全に関心をもたない」

 ところが敗戦後の日本という国家は憲法に「規定」されている。
 なぜなら憲法は天皇、政治家、公務員の行動に規制をかけているからだ。つまり憲法は為政者を縛る法である。
 その憲法は9条によって暴力を完全否定している(と私には読める)。
 ヴェーバーが国家の本質を暴力、あるいは暴力行使と規定したことと照らし合わせると、日本国憲法は新しい国家観を提示したと言えないだろうか?
 ここで非暴力とアナーキズムが密接な関係にあることに気付く。

 だからなのか、「普通の国家」を求める安倍晋三首相は憲法を改正しようとし、解釈を変更しようとする。「普通の国家」とは暴力行使のできる国家であるだろう。
 彼はそれに先立って教育基本法を改正し、「国を愛する心を育てる」ことを盛り込んだ。無論そこでいう愛国心の国とは「普通の国」のことだろう。
 多くの場合「愛国心」は国に対する批判をさせないためのものであり、国の命令を素直に聞くために用いられる。そこで国家が必要としている「国民」が得られるのである。
 だから特定秘密保護法や共謀罪が必要なのだろう…