ゴールデンボンバー 7・16横浜アリーナ ver.2
(ver.2が加わった部分はここ)
「アイドルバンド」の系譜を考えると、その始祖はどこになるのだろう?
定義をするなら、アイドルを作りそれにバンドの形態を持たせるということだと思う。バンドにする意味は、複数でチームが作れること(AKBのように多くの消費者ニーズに対応できる)、そしてミュージッシャン人気にあやかることである。
日本のクレージーキャッツの場合、実際のミュージッシャンだったので、というより石橋エータローはかなりハイクラスのジャズピアニストだったから、アイドルバンドではない。
私はその始祖をアメリカのザ・モンキーズに求める。
彼ら4人は、タレント事務所で集められ作られたバンドであった。
彼らは演奏が全くできなかった訳ではなかったらしいが、人前で演奏するレベルではなかったらしい。しかしI wana be freeというヒット曲があるし、テレビ番組とのタイアップで「モンキーズのテーマ」もヒットしたという記憶がある。
後に唯一のミュージッシャンだったマイク・ネスミスが別の本当のバンドを結成し、1曲スマッシュヒットをとばした記憶がある。
卑近な例として日本のGS(グループサウンズ)ブームの頂点を極めたザ・タイガースがある。元々の4人(vo含む)は演奏のできるミュージッシャンだったが、後に米国帰りと鳴り物入りで参加した岸辺シローは、楽器が何もできなかった。
だから実演(当時のライヴという表現)のときはモンキータンブリンを叩いていた。
彼の場合は、バンドに参加したアイドルということが言えるだろう。
彼がアイドルかどうかではなく、実質を伴わないパフォーマーをアイドルと定義したにすぎない。
そのアイドル戦略が成功したかどうかは分からない。
余談になるが、最初に「グループサウンド」と評されたのはマイルス・デイビスのコンボであった。
従来のリズムセクションにのってソロを順番に展開するシステムではなく、複数の管が和音を奏でたりする演奏スタイルのことだ。都会的でクールだった。
その他にリューベンがいた。
彼は初めcharのバンドにいてdsを担当していた。これはcharを売り出す事務所の意思だと思う。後にリューベンは独立してバンドを結成するのだが、自分以外のdsを置きツインドラムスという特異なバンドスタイルになった。
これらのアイドルが加わったバンド、あるいはアイドルバンドは、少なくとも演奏をするフリをしていた。
ゴールデンボンバー(以下GB)がアイドルバンドの究極だと思うのは、「演奏するフリ」を捨てたところにある。
このアイデアのヒントのひとつにラップミュージックがあるのではないかと思っている。つまりレコード演奏(GBの場合はipod)の上にのって行うパフォーマンスである。
当然電気楽器の普及もある。
LIVEとは生の音を聞くことである。
ロック音楽の隆盛からPAからの音を聴くことに抵抗のない世代が増えたことも関係がある。電気楽器を使わないアイドルバンドは存在できないからだ。
GBのもうひとつのエポックは、オーディションのあるNHKに、しかも紅白歌合戦に出演したことだ。これは私の邪推の域を出ないが、NHKはエアバンドを認めたのではなく、ひとりの歌手として認めたのだろう。
だから一度GBの「LIVE」を見てみたかったのだ。
GBのパフォーマンスはシナリオの定まったショー形式で、ショーというより「テレビ番組」のようだった。
作られた映像があり、それがストーリーとなっていく。
彼らがその中で寸劇やくすぐりをしていくのだが、それらは全て計算された進行の中で行われる。
横浜アリーナが大きなハコだからか巨大なスクリーンにステージ上の彼らが映るのだが、その映像が見事なのだ。
例えば歌広場淳がギターのネックを舐める2、3秒のシーンがあるのだが、それを完璧にカメラは拾うのである。アングルもズーミングも完璧である。
また、スーパーインポーズも入るし、重要なシーンは何度もリピートされ、時としてスローモーション映像になる。その場で瞬時に加工するのかどうかは確認しようがなかった。
編集された画像を流しているのかと思い何度も確認したが、まさしくLIVE映像であった。
ライトパフォーマンスはPCを使ってできるが、カメラとシーンチェンジは人ではないとできない。
スタッフ力のすごさを見せつけられた。
鬼龍院翔はほぼ15曲を歌い、アンコールで3曲歌った。
音楽性のよさや、のりやすい旋律が人に支持されるというのが分かる。
終了間際にスクリーンにスフッタロールが映し出された。
そして、常に対話形式なのである。
語りが異常に多いことは、そのステージが音楽のLIVEではないことを確認させるし、振り付けを事前に観客に確認し一体行動をとらせることは観客との同位性を強調しているように思える。
つまり参加型のイベントなのだ。
この虚構の中で、観客の求めるものは多岐にわたることを予想させた。
全員のパフォーマンスはそれが稚拙だとしても、ミュージッシャンがやっているからと許されるし、個性的でもあるからだ。
かつて「おニャン子クラブ」や「モーニング娘。」や「AKB」を学芸会芸と定義し、それが受容される要素と指摘したが、それに通底するだろう。この場合消費者としての観客は秀逸なスキルを求めるのではなく、自分との同位性、つまり稚拙さを求めるのだ。
だから観客が彼らに何かを仮託しているのではないかと思った。
それは自分の外部によるものかもしれないし、内部に潜むものかもしれない。少なくとも自分を凌駕するスキルに対するものではないはずだ。
稲増龍夫氏(法政大学教授メディア文化論)はこう言う。
「松田聖子以降、アイドルは虚構=作り物と見られることが多くなる。テレビ局が自前で生み育て、プロデュースの裏側も見せたおニャン子は、擬似恋愛の対象としてのみならず、虚構を楽しむ『メディア現象』としての魅力があった」
確かに視点を変えるとGBはメディア(媒体)パフォーマンスでもあり、ファンはメディアの楽しみ方のひとつと捉えているのではないかと思われる。
それはキッチュとの連動も思わせる。
石子順造は「キッチュ論」(石子順造著作集)の中で次のように定義している。
「キッチュは呪術性、実用性などの要素をふくみ、美的でありながらいっそう倫理的で、個別的には礼拝的価値の対象でありながら、共同幻想をあやうく自己幻想に収斂させようとするメディアとしての力学構造を持った表現全般の呼称である。」
私は「60年安保、日活という時代」で、日活映画の人気をチープとキッチュで読み解こうとした。
それを思うと若者に、というより若者だけに支持された日活作品とGBは結びつくような気がする。
また脚本家と演出家がいると思ったが、鬼龍院翔が構成していると言う。
一見参加型のイベントに見えるものの、全てが、ハプニングですら計算されたステージなのだ。
テーマを探すのは私の悪い癖かもしれない。
しかし、あらかじめ用意された情動のようで、哀しさですら感じた。

