ジャズ喫茶の歴史 その1
ジャズ喫茶の定義そのものが曖昧ではあるが、喫茶店で客に ジャズレコードを聴かせる店が登場したのが1929年で、本郷 「ブラックバード」と新橋「デュエット」である。29年以前に も浅草「パウリスタ」がダンスレコードをかけていたと言う。
その当時は他にクラシックを聴かせる「名曲喫茶」とタンゴ を聴かせる店もあった。かけるレコードは当然SPで、しかも 手回しの蓄音機であったためレコード係を置いた。名曲喫茶の 豪華な店は内部にステージを設け電気蓄音機を置き、特別のドレスを着せた女性をその担当にしたと言う。
SPは片面3分間であり、針を9分(片面3面分)で交換しなければならないので、専用の担当が必要だったわけだが、ジャズ 喫茶では女性を置く余裕がない。そこで、電気蓄音機のモーター部分を取り外し裏に持っていき、スピーカーを表に置いた。そうすると中でコーヒーなどいれながらレコードが回せた。
リクエストも受けるため忙しさは増す一方で、そこでターンテーブルを2台にし「二機連続演奏」とおおいにPRした。
参考文献 横浜ジャズ物語 「ちぐさ」の50年 吉田 衛著 神奈川新聞社刊
追伸 文献上話題が東京、横浜に限られる事をご了承下さい。
ジャズ喫茶の歴史 その2
「二機連続」というのを各店がこぞって宣伝し、 看板も掲げPRした。「ちぐさ」がオープンしたのが1933年で、そ の時は各店が趣向をこらして客の接待をしたと言う。下谷佐竹通りにあった「アメリカン茶房」は女性が一斉に「いらっしゃいませ」と迎え、注文を「コー ヒーワン」「コーヒーツー」と英語を使って珍しがられた。その時代普通レコードは1円50銭ぐらいであったが、輸入盤は高くブランズウィックのデューク・ エリントンの「キャラバン」は8円50銭で買った。
つづく
ジャズ喫茶の歴史 その3
1930年代から40年代のジャズ喫茶では、どのようなタイプのジャズが好まれていたかというと、ほとんどは曲名によるリクエストで、「セントルイス・ブルース」や「タイガー・ラグ」「ダイナ」などが人気があった。これら人気曲は別にリストを作っておいて「誰の歌ったものにしますか?」と聞いていた。
ミュージッシャンとしてはビング・クロスビー、デューク・エリントン、ルディ・バレー、ミルス・ブラザーズ、ファッツ・ウォーラー、テディ・ウィルソン、マキシン・サリバンなどが人気があった。
ジャズ喫茶の歴史 その4
創世期の店のかずかず
1931年
アメリカン茶房(下谷佐竹通り)
ブランズウィック(京橋)
ゆたか(銀座)
メイゾン・リオ(横浜)
ブラウンダービー(浅草)
1933年
デューク(渋谷)
ブラックバード(銀座)本郷のブラックバードが移転
ダット(新橋)
1935年
ハイハッター(銀座)
スイング(大井町)
1938年
ジム・デュエット(銀座)
ジャズ喫茶の歴史 その5
とうとう暗い時代がやってくる。米日開戦の一年前の1940年にダンスホール閉鎖命令が出て、それと供にジャズ喫茶も衰退していった。その閉鎖命令によって一夜にしてダンスホールがなくなったと言う。それに伴いジャズ喫茶も絶滅へと向う。さらに開戦後、ジャズレコードは1枚ずつ指定され回収を命じられた。これで完全に絶滅してしまう。ジャズ喫茶だった店は、ジャズレコードがかけられないので、日本の歌曲や民謡をジャズ風にアレンジしたレコードをお客に聴かせうっぷんを晴らしたと言う。
関係者が出征したため、ジャズ喫茶の再生は敗戦後まで待たなければならない。「ちぐさ」の吉田氏が中国の武昌から復員したのが1946年。しかし、45年5月の大空襲で「ちぐさ」は焼失していた。もちろん苦労して集めた6000枚のレコードも全て灰になっていた。それは憲兵の目を逃れて2回に避難していたレコードだった。
ジャズ喫茶の歴史 その6
戦争が終り日本には占領軍(別名「進駐軍」)が駐留するようになった。その軍が持ってきたものがジャズだった。進駐軍放送WVTRは一日中ジャズを流していた。それが戦前のジャズ喫茶関係者達に勇気を与えた。
「ちぐさ」にはかつてのお客さん達から焼け残った貴重なSPが1000枚ほど寄せられ、それが再興の土台となった。また、米軍慰問用レコード(Vディスク)も必死の思いで数百枚集め1948年10月に再開した。
アメリカ兵がVディスクを持ってきてくれたりしたが、あくまでも軍の備品であるため持ち出す事は禁じられていた。まして日本人が持っている事がわかったら大変な時代だったのだ。物資の横流しを取り締まるMPのジープが突然乗り付け、MPが店内に入ってくることもあり、そのたびにVディスクを隠したという。しかし、MPはニヤニヤするだけで、結局は見逃してくれた。
