英語教育の蹉跌
英語教育ほど種々の話題に上る「教科」は無い。
例えば数学(算数)が話題になったのはπを3にするか、3.14にするかといったことぐらいだ。
その理由は英語教育がひとつの大きな産業になっているからだ。
消費者センターの苦情に高額な「英語教材」はたくさんあるが、高額な「数学教材」は聞いたことがない。
それらは英語に対する信仰のようなものを感じるが、学校教育の不全も感じる。
学校教育の不全とは、長い間英語をやっているのに使えないということだ。
このことにはいくつかの理由がある。
ひとつは日本で生活するには英語が不必要だからだ。
もうひとつは学校における英語教育の蹉跌だ。
生活するのに英語が必要な地域は、使いやすくした英語を用いている。
では英語教育の蹉跌とは何だろう?
それは「教養英語」と「実用英語」の問題である。
「教養英語」とは英語の特質を知り、聞いたり話したりできないが、詩を読んだりエッセイを読んだりできることである。
これは漢詩に似ているかもしれない。
漢詩を能くする人が中国語ができないのは珍しくない。
「実用英語」とはまず聞けることで、次に話すことである。
宗主国がある場合は必要な能力になる。
よって使いやすい英語の開発などはこの条件下でできる。エボニックスやグロービッシュがそうだ。
日本で「使える英語」ということが言われるが、それはグロービッシュやアジアンイングリッシュではなく、「正統派英語の読み書きができること」なのだ。(「正統派」なる言語が存在するか?については大変懐疑的だが、テストで点数をつけたい人たちには必要な概念。またヨークシャー訛りなどの地域語や、コクニーイングリッシュなどの階級言語は含まないと思う)
これは実は大変困難なことで、これを多くの人に課すのは無駄が甚だしく多い。
乳幼児期以降に正統言語を獲得するのはとても難しいのだ。
才能の点で言うと、同時通訳者で小学校から英語をやっていたものは少数派であることからも分かる。
言語獲得には必要性と才能が重要だと言った。
東京外国語大学の学生は大学に入ってから勉強を始めた言語で、3年生くらいになると留学する学生が多い。そしてその言語が日常生活で使える。
もちろん獲得できない学生もいるが、そこには「才能」を感じるのだ。
だから選択科目という発想が生まれる。
ところが当大学の学生に聞くと中学で英語などをやったから、その後外国語に接することが容易だったという意見が少なくない。
また、正統派英語で書かれた文章を日本語に翻訳し、その内容を理解できない学生がいるのは事実だ。これは日本語読解の才能も必要だからだ。
だから私は「英語」という科目立てに批判的で、日本語と他言語の共通点や相違点を教える「言語科」のような科目の方がいいと言ってきたが、その主張を私より早く言っていた人がいたことを知った。
『現代思想』4月号「なぜ英語教育は混迷するのか」大津由紀雄 論文がそうだったので、実に興味深く読んだ。
私は「実用英語」はグロービッシュなどを選択科目として教えるのが効率がいいと思う。
参考
http://ameblo.jp/stone2/entry-11854794202.html
http://ameblo.jp/stone2/entry-11854796402.html
http://ameblo.jp/stone2/entry-11854798935.html