映画『ハンナ・アーレント』魂が揺さぶられるスリル その1 | leraのブログ

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映画『ハンナ・アーレント』



魂が揺さぶられるスリル





 私の世代にはアイヒマン裁判の記憶がある人が少なからずいるだろう。



 新聞の一面に大きな写真として載ったし、テレビニュースでも見たからだ。


 そのモノクロームの写真や画像が異様だった。その異様さはなぜ人々が騒いでいるのかの異様さだったと思うし、同時通訳のヘッドホンの異様さだったと思う。






 映画のアイヒマンの画像は全て実物を編集したものである。


 私には不気味さが去来した。






 そのアイヒマンがホロコーストと結びつくのは、それから随分経ってからだ。






 この作品に縁(えにし)を感じるのはアーレント役のバルバラ・スコヴァである。





 今年の3月にライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の『ベルリン・アレクサンダー広場』(1980)の準主役のミーツェ役で出ていたからだ。この作品は反ナチ作家アルフレッド・デーブリーンの長編小説をテレビドラマ化したものだが、全14(15時間)という大作であった。


 この小説に関してはベンヤミンが『長篇小説の危機』として文章化している(ちくま文芸文庫ベンヤミンコレクション2p.335)






 ミーツェは第10話から出てくるので、約5時間以上彼女の出演作を見たことになる。






 そしてさらなる縁は、この作品の監督であるマルガレーテ・フォン・トロッタも女優としてファスビンダー監督の種々の作品(例としては『悪の神々』)に出演している。






 トロッタ監督は1986年に『ローザ・ルクセンブルグ』を作り、その作品のローザ役にバルバラ・スコヴァを起用したのである。


 そして、私が『ローザ・ルクセンブルグ』を観たのが今年の10月。


 つまり今年だけでバルバラ・スコヴァの出演作を三本見たことになる。






 そこで思うのはローザとアーレントの弁舌であり、つまりスコヴァの弁舌の圧倒的存在感である。そして何度も投獄されても意志を変えないローザと、この作品でのアーレントが二重に見えるのは私ばかりではないだろう。






 この作品のスリリングな部分はいくつかある。





 そのひとつは、ハイデガーと再会し(195027)、ハイデガーの学長就任演説を批判するところである。


 もうひとつは大学で学生を前に講義をするところである。





 私はこの講義のシーンで涙が溢れた。理由は分からない、自分に説明がつかない。






 アーレントに対するあらゆる方面からのバッシングに対し、友人のメアリー・マッカーシーの反論が実に清々しい。





 この作品は監督、脚本、プロデューサー、撮影、編集が女性である。スタッフは意図していないだろうが、私は女性の視点を見た気がした。つまりアーレントを批判する「しかるべき地位」にいる人たちは男性であり、大学の講義の場でも批判しようとするのは男性なのだ。


 そしてその男性たちは「時の流れ」、今よく使われる表現でいくと「空気」を読んでいるにすぎない。あるいはポピュリズムにすぎにない。





 だから裁判の欺瞞性に気付こうとしないし、裁判の本来性を問おうとしないのだ。






 アーレントはユダヤである。


 「ユダヤ」という表現は私の選択である。なぜなら彼女はユダヤ教徒ではないからだ。表現としては「ユダヤ」「ユダヤ人」「ユダヤ系」とあるかもしれないが、国籍を超越したグループ(すでに同言語グループでも、同言語バンドでもないかもしれない)の中で分離・分類しようとする思想にホロコーストの恐ろしさがあるのだろう。






 言語的な問題もある。


 ドイツ語、英語、ドイツ語なまりの英語、ヘブライ語(イディッシュ語)、そしてほんの少しのフランス語。


 これらの言語が同時にあることの時代性は、まさに言語統一の逆相であるもうひとつのグローバリズムであるように思える。多言語だからこそ、コミュニケーション疎外ではなく、可能性があるように思えるのだ。ただそれらの言語を聞き分け意味からもう一歩踏み込んだ思考ができる能力は私には無い。






 その中で彼女は「民族への愛」(あるいは民族性)を問われてこう言う。


 「ひとつの民族を愛したことはない、私が愛するのは友人、それが唯一の愛情」





 結果として、その友人たちを失った悲しみはいかばかりであったろう…