『走れゴスポディン』 ドイツ現代演劇  過去ログ転載 | leraのブログ

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『走れゴスポディン』


ドイツ現代演劇



 2010年8月21日にドイツ文化センターでフィリップ・レーレの戯曲「Genannt Gospodin」の上演かあった。


 ドイツ演劇がなぜ世界の演劇界を牽引しているか。


 ドイツでは演劇は「社会を見る目を育てる」という観点があり、税金が投入されている。よって、俳優やスタッフもステータスが高いし観劇料金にも補助がでる。だから演劇で、社会批判、現代批判をどう構築するかがテーマでもある。演劇に娯楽を求めない、それはテレビや外国産映画が担うわけである。


 さて、『走れゴスポディン』はリーディングで行われた。


 新作を上演するにはリーディングが容易であるが、リーディングにはリーディングの苦労がある。「立ち稽古」ではないからだ。


 今回は、というより今後の上演はないかもしれないが…中野志朗氏(文学座)の演出で、動画映像と音響を組み合わせそれが巧みであった。


 元々、ドイツ語上演ではないかと、さらに字幕はあるのか?と大変危惧していたのだが、寺尾格氏の翻訳で日本語によるリーディングだった。


 ゴスポディンという名はスラブ言語で「ミスター」という意味だという。つまり主人公は異邦人の趣を持っている。彼は、アルパカ(原文ではラマ)と一緒に住んでいるという変わった失業中の青年だが、アルパカをグリーンピースに接収されてしまい、ある決意をする。


 その決意というのは、資本主義に反抗するという意志で4つのグドマを定める。ここでは、「ドグマ」という言い方が、重要でどうしても「ドグマ」でなければならない。

 第一ドグマ 逃げ出してはならない。
 第二ドグマ 金を必要としてはならない。
 第三ドグマ 全ての所有は拒否されなければならない。
 第四ドグマ 自由とは、決定を強制されないことである。

 この四つのドグマを実践していくと、とんでもないバックラッシュに会う。あたりまえか。同棲していた恋人には去られ、母親には心配、批判され、知人たちも去っていく。


 ところが本人の意思とは無関係に大金が入ってくる。


   すると去ったはずの恋人は「愛してる」と言い出し、知人たちもたかりに寄ってくる。結果的に彼はその大金を憎むべくグリーンピースに寄付してしまうが…


 その大金を捜査していた警察に逮捕されるが、それはゴスポディンの知人が原因であるのだが、彼は自分の責任を否定しないため刑務所に入れられる。


 その刑務所が4つのドグマを実践するに最も相応しい場所だと分かり感動するのである。  「逃げられない」「金を必要としない」「なにも所有できない」


 面会に来た恋人にそれを説明し、ここにいるから君にも「会える」と言う。


 恋人は「何言ってんの、あたしが会いに来てるんじゃないの!」と反論する。彼はこう言う。

「会うかどうかはボクだけの判断、つまり決定を強制されない」

 たいへんよく出来た喜劇だった。


 根底には資本主義批判があるのだが、上からの批判ではなく、ちょっと角度を変えた「ヘンなところ」からの批判である。もともとブレヒトの土壌があり、これこそドイツ現代演劇だと思わせる。


 ルーカス・アッペル(ドイツ文化センター)はこう評する
「単純な資本主義批判などではなく、むしろ『資本主義』と『資本主義批判』に対する批判的コメディーである。これを読む人の頭には、連帯、友情、ニヒリズム、消費批判などといったテーマ、そしてまた自分自身の置かれた状況などが浮かんでしまうだろう。ところが、驚いたことにこのコミカルな対話は決して破綻することがない。」


 また、アンドレアス・ユトナー(ドイツの演劇ポータルサイト Nachtkritik.de)の次の言葉を紹介している。


「いわば世界の変容を前に、立ち止まって思索をめぐらすための『つまずきの石』をおかしくも悲しき体現するのがゴスポディンだ」


 上演が終わってから、語学生のドイツ語でのリーディングがあった。
 これは原語の響きを味わうためである。語学生は老若男女で日本人ばかりではなかった。


 ドイツ語リーディングの後に寺尾格氏と中野志朗氏の対談があり、これもなかなか面白かった。

・ゴスポディンというスラブ系の名前の背後には社会主義や共産主義があり、他者のまなざし。
・ゴスポディンと警察のヤリトリは「噛み合わない」ものだが、カミュの異邦人の主人公を彷彿とさせる。はっきり否定しないと死刑なのにしない。カミュならこれは「実存」になる。また、これは貨幣を否定する態度にも通じる。
・9.11以降の現代批判をどう構築していくかが大きなテーマ。
・喜劇が途中で凍る、という演劇。
・語りの部分でドイツ語では「彼(三人称)」だが、翻訳では「私」にしたのは、外国語の多くは主語が強いため、日本語では「彼」と「私」の差異が小さく「私」の方が伝わる。
・Bu:rger(:はウムラート)をどう訳すか困った。本来は市民と言う意味だが、レーレは「プチブル」といった意味が強い。悩んだ末「俗物」という言葉にしたが満足していない。
・今年5月のベルリンの演劇祭のワークショップに参加したが、経済学の論文を読んでそれについて発表したりと、かなり高度なものを要求される。
・監獄が素晴らしいという単純な批判になっていないところが巧み。

 その後に無料の立食パーティーがあった。


 当然ビールが出るものと、卑しくも期待したのだがアルコール類はなかった。直径60センチくらいあるパンをくりぬいた中にサンドイッチが入っていて、それはたいへん美味でした。


 その中で寺尾格氏としばらく話した。

 現代批判、社会批判などの議論を引き出すのが演劇の目的という話から、表現の自由はどうやって守られているか、と聞いた。


 やはり、名誉毀損などで裁判沙汰になることはけして珍しくなく、しかも新聞の一面になったりする。しかし、クレームで「自粛」したりすることはありえない。ネオナチをテーマにしたものでは、上演停止命令が裁判所から出たりしたこともある。また演劇雑誌が多数あり、演劇ジャーナリストの質がたいへん高い。


 演劇人のステータスが高いと言ったが、金銭面の待遇や年金など実に充実していて、それはリーマンショックなどとは無縁である。国の強い意思を感じる。


 宣伝らしい宣伝もしていないと思うのだが、場内はほぼ満席だった。


 演劇が2時間、ドイツ語リーディング、対談、パーティーと6時間以上の長丁場だったが、たいへん充実した時間だった。


 この企画はVISIONENとタイトルされているが、12月にはカトリン・レグラの『私たちは眠らない』(Wir schlafen nicht)来年3月にはマティアス・チョッケの『文学盲者たち』(Die Alphabeten)が上演予定に入っている。


 ドイツ現代演劇が活字以外で観られる貴重な企画である。

 問い合わせはドイツ文化センターへ。


データ
作 フィリップ・レーレ Philipp Lo:hle
翻訳 寺尾 格
演出 中野志朗(文学座)
出演 金 世一、松井 工(文学座)、目黒未奈(文学座)
映像プラン 執行真生
音響プラン 大杉大輔

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原題は「その名はゴスポディン」といった意味。