「夜よこんにちわ」のマルコ・ベロッキオ監督が中道左派から立候補した。
「夜よこんにちわ」は赤い旅団を扱った作品である。赤い旅団に対する評価はけして単純ではない。また、アントニオ・ネグリは赤い旅団に対するイデオロギー的影響力を持っているという理由で、イタリア国内で軟禁された過去を持つ。
また、「革命前夜」(ベルナルド・ベルトリッチ1964)は「カトリックの復活祭と共産党の赤旗祭りの間」の季節がステージだった。つまり「熱い時代」があったのだ。
今、イタリア映画界は政府からの助成金の減額に色めき立っている。政府の助成金を得て作る映画というものを考えて行かなければならないのかもしれない。
私は、2004年の映画祭の開会式で、イタリアのイラク戦争参戦に対しなんら発言が無かったことを批判したが、今年も期間中にアフガニスタン(イラクではない!)でイタリア兵が「戦死」した。
もちろん、その件に対し発言もなければ声明もなかった。
今年の映画祭は6年目になると言う。
年々観客が増えたことは事実だし、実感としても感じた。しかし、今年の作品群の質に関しては少々の疑問を感じざるを得なかった。それは、映画祭にタイトルがなかったことも象徴しているのかもしれない。
タイトルの不存在に対しプロデューサーの岡本さんに尋ねようと思ったが、ナンセンスなので尋ねなかった。もうタイトルがつけられる情況ではないのだろう。商業的にも成功しているようだし、テーマを決めそれに沿った作品を(あるいは逆かもしれないが)選択するほどの時間的な余裕もないのだろう。
どう定義していいか分からないが、多くの作品に共通していたモティーフは「浮気」であった。不思議なくらいモティーフとして共通していたのだ。モティーフとして共通するぐらい(例えば食べるという行動のように)普遍的で重要なことなのか?そして、その浮気はほとんどが愉快な結果とならなず、人間関係の荒廃ばかりを表現する。
アッブレージャがインタビューで言っていたことは、男性の80パーセント女性の60パーセントが浮気するとのことだったが、これは人間関係の荒廃を意味してはいないか?そんな日常生活の思考対象にならない風潮を主たるモティーフとして多々登場する表現情況とは何なのだろう?単なるトレンドなのか…(アッブレージャに浮気を容認するニュアンスの発言があった時に会場のイタリア語圏女性の何人かからNOの声が上がった)
カトリック圏で離婚に1年以上かかる事情がそうさせるのかもしれないが…
ピッチョーニは出品作品に対するインタビューの中で「誠実」ということを言っていたし、いままでの作品にもそれは表れていたような気がする。それは浮気という「ファド」とは相容れないのではないかと思う。
そして、その浮気の多くは女性が悲しみ、男性の性欲しか見出せない。
ネオリアリスムに対する郷愁でもなく、パゾリーニ対するオマージュでもなく、ヴィスコンティに対するあこがれもないが、今回の映画祭に対する全体評価は厳しくならざるを得ない。
その中であげるとするなら「聖なる心」をあげる。それに続くものとして「見つめる女」「13歳の夏僕は生まれた」「2度目の結婚」「心の中の獣」を推す。
「向かいの窓」のような抑制的な表現で重層的なストーリーの作品は無かった。
映画表現とは何なのか?というプリミティブなテーマを再考させる機会ではあった。映画の商業性、映画の存在意味、映画そのものの存在感、といったものを考えてしまった。
しかし、1日10時間連続で6日間の世界は夢のようであったと自白しておこう。映画館に住んでいたようなものだったからだ…映画館に感動するヘンリー・ミラーのエピソードは別にして、映画に対する変質的な嗜好として映画館を好きになるというのはそれほど特異なことではないと思う。
来年は行くかな?若い人に任せたいと思う…6日間で12本の映画を観ることは結構大変だし、余された時間が少ないと思うともっとドキュメンタリーを観ることに時間を割きたいし…映画ファンの心情はちぢに乱れるのであった。
私たちは、なぜ映画を観るのだろう?
私たちは、何を映画に見るのだろう?
私は映画に対するすべての楽しみを否定しない。人それぞれ色々な楽しみがあることが判ったのは最近のことだ。
「夜よこんにちわ」は赤い旅団を扱った作品である。赤い旅団に対する評価はけして単純ではない。また、アントニオ・ネグリは赤い旅団に対するイデオロギー的影響力を持っているという理由で、イタリア国内で軟禁された過去を持つ。
また、「革命前夜」(ベルナルド・ベルトリッチ1964)は「カトリックの復活祭と共産党の赤旗祭りの間」の季節がステージだった。つまり「熱い時代」があったのだ。
今、イタリア映画界は政府からの助成金の減額に色めき立っている。政府の助成金を得て作る映画というものを考えて行かなければならないのかもしれない。
私は、2004年の映画祭の開会式で、イタリアのイラク戦争参戦に対しなんら発言が無かったことを批判したが、今年も期間中にアフガニスタン(イラクではない!)でイタリア兵が「戦死」した。
もちろん、その件に対し発言もなければ声明もなかった。
今年の映画祭は6年目になると言う。
年々観客が増えたことは事実だし、実感としても感じた。しかし、今年の作品群の質に関しては少々の疑問を感じざるを得なかった。それは、映画祭にタイトルがなかったことも象徴しているのかもしれない。
タイトルの不存在に対しプロデューサーの岡本さんに尋ねようと思ったが、ナンセンスなので尋ねなかった。もうタイトルがつけられる情況ではないのだろう。商業的にも成功しているようだし、テーマを決めそれに沿った作品を(あるいは逆かもしれないが)選択するほどの時間的な余裕もないのだろう。
どう定義していいか分からないが、多くの作品に共通していたモティーフは「浮気」であった。不思議なくらいモティーフとして共通していたのだ。モティーフとして共通するぐらい(例えば食べるという行動のように)普遍的で重要なことなのか?そして、その浮気はほとんどが愉快な結果とならなず、人間関係の荒廃ばかりを表現する。
アッブレージャがインタビューで言っていたことは、男性の80パーセント女性の60パーセントが浮気するとのことだったが、これは人間関係の荒廃を意味してはいないか?そんな日常生活の思考対象にならない風潮を主たるモティーフとして多々登場する表現情況とは何なのだろう?単なるトレンドなのか…(アッブレージャに浮気を容認するニュアンスの発言があった時に会場のイタリア語圏女性の何人かからNOの声が上がった)
カトリック圏で離婚に1年以上かかる事情がそうさせるのかもしれないが…
ピッチョーニは出品作品に対するインタビューの中で「誠実」ということを言っていたし、いままでの作品にもそれは表れていたような気がする。それは浮気という「ファド」とは相容れないのではないかと思う。
そして、その浮気の多くは女性が悲しみ、男性の性欲しか見出せない。
ネオリアリスムに対する郷愁でもなく、パゾリーニ対するオマージュでもなく、ヴィスコンティに対するあこがれもないが、今回の映画祭に対する全体評価は厳しくならざるを得ない。
その中であげるとするなら「聖なる心」をあげる。それに続くものとして「見つめる女」「13歳の夏僕は生まれた」「2度目の結婚」「心の中の獣」を推す。
「向かいの窓」のような抑制的な表現で重層的なストーリーの作品は無かった。
映画表現とは何なのか?というプリミティブなテーマを再考させる機会ではあった。映画の商業性、映画の存在意味、映画そのものの存在感、といったものを考えてしまった。
しかし、1日10時間連続で6日間の世界は夢のようであったと自白しておこう。映画館に住んでいたようなものだったからだ…映画館に感動するヘンリー・ミラーのエピソードは別にして、映画に対する変質的な嗜好として映画館を好きになるというのはそれほど特異なことではないと思う。
来年は行くかな?若い人に任せたいと思う…6日間で12本の映画を観ることは結構大変だし、余された時間が少ないと思うともっとドキュメンタリーを観ることに時間を割きたいし…映画ファンの心情はちぢに乱れるのであった。
私たちは、なぜ映画を観るのだろう?
私たちは、何を映画に見るのだろう?
私は映画に対するすべての楽しみを否定しない。人それぞれ色々な楽しみがあることが判ったのは最近のことだ。
